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米国の合理的配慮から「公」のあり方を再考する

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講師:三原岳(東京財団研究員・政策プロデューサー)
日時:2012年9月29日(土) 11:00~12:00
文責:週末学校事務局 石川絵里子

本講義の目的

ポートランドでの国外調査では、住民主体のまちづくりについて学んできたが、政策決定プロセスの中で、ネイティブアメリカンや移民等、少数派の人々を地域づくりに巻き込み、彼らの意見を取り入れていこうと、行政としてポートランド市が奮闘している現状が浮き彫りになった*1。これに対し、少数派への対応にどこまで各種行政コストを割くのか?という疑問を持った研修生も多かったようである。

では、この疑問に、これまで週末学校で学んできた「公」のあり方*2をあてはめて考えてみたらどうであろうか。「公」の範囲とは。「公」と「私」の境目はどこにあるのか。「公」の担い手は誰なのか。

本講義では、アメリカの高等教育現場における障害者*3支援を取り上げる。高等教育での学習機会を求める意欲ある障害者に対する支援は、どこまでが「公」であると言えるだろうか。また、その範囲や基準を決めるのは誰であるべきだろうか。

アメリカで実施されている「合理的配慮(reasonable accommodation)」は、障害のある学生と障害のないその他の学生との学習環境・条件を平準化するため、障害者本人からの要請に基づき、本人と大学とが必要な支援内容を現場で調整・合意するという方法だ。官である国や自治体が決めた一律な基準に基づいて支援を行う日本とは、対極的である。同じ障害者という社会の少数派に向き合うとき、このような違いが生まれるのはなぜだろうか。

地域の現場を担う自治体職員の役割は何か。運用のプロとして、全国一律の制度に準拠するばかりではなく、少数派も含めた幅広い住民の意見を聞き調整する、まさに「合理的配慮」が日々の現場で求められているのではないか。「公」をどう捉え、その中で自分は何を担うのか、自治体職員としての存在意義を改めて考えてほしい。

講義内容

●多数で形成される社会とは

「合理的配慮」と言ってもおそらく大多数の方が聞いたことはないだろう。最近出された内閣府の世論調査では、合理的配慮という考え方を知っている人は約4%しかいないという結果が出ている*4。日本では、現在までのところ、障害者政策に携わるごく一部の人達だけが議論しているテーマなので、世の中にあまり伝わっていない。しかし、障害者政策の分野に限らず他の分野についても波及すべき考え方、「公」のあり方や官民連携、市民社会、地域づくり等に通ずる概念だ。

ポートランドでの国外調査では、少数派の意向を配慮しながらまちづくりを行っている様子を見聞きしてきたと思う。それに対して、これはアメリカ独特の話で日本には当てはまらない、と思った人がおそらく多いのではないか。実際、日本は、アメリカほどは多民族国家ではなく、また、同質性が強い社会だと言われている。しかし、本当に日本には当てはまらない話なのか、ということをここで問いたい。つまり、アメリカに限らず、実は日本でも、知らず知らずのうちに多数派によって社会が形成されてしまっているのではないだろうか。

多数で形成される社会とはどんな社会だろうか。身近な例から考えてみたい。駅の自動改札は、なぜ右側に設置されているのか?ドアノブはなぜ右回しなのか?それは、右利きの人が多いからだ。つまり、右利きの人が多いという前提の上で社会は形成されていて、その結果、左利きの人が不便を被っているということになる。実は日本でも、至る所で知らず知らずのうちに多数派の原理に基づいて社会が形成されており、その具体例が自動改札やドアノブであると言えよう。ポートランドのように、多数だけで社会が形成されないような配慮が日本でも必要、ということになる。

日本の場合、同質性が高いため、「少数派」はそれほど顕在化していない。しかしそれは、大多数の論理が、少数派にも同質性を強いている結果に過ぎないのだ。障害者政策にあてはめて考えてみると、大多数の右利きの人達を中心に社会が形成され、左利きの人達が不便を被っているのと同じように、大多数の健常者が社会を作ることによって、障害者が少数派として社会から疎外されたり、社会参加を阻害されたりすることになる。

●多数の形成した社会が、障害を作り上げる

では、「障害」、「障害者」とは何なのか。少数派である彼らは、本当に世の中に巻き込まなければならない人達なのか。確かに障害者の中には自立が難しい重度な人も含まれており、こういった方々に対するセーフティーネットはもちろん必要である。ただ、憲法にも規定されているとおり、全ての人間は自立する権利を持っており、また、意欲・能力のある障害者が社会に参加出来ないということは、社会全体にとってもマイナスとなる。

私は、東京財団の「障害者の高等教育に関する政策研究プロジェクト」において、アメリカの複数の大学を訪問し、障害者支援の様子を視察、大学関係者との意見交換を行ってきた。この視察時に、IBMで管理職経験のある聴覚障害者と会ったが、手話を介してコミュニケーションを取れば何の問題もなかった。また、彼は、健常者と同様に仕事をし、給料を得て税金を払っている。つまり、全ての障害者が一方的に支援を受けるだけの弱者ではないということだ。日本でも、障害を持ちながら専門性の高い分野で働く人に研究会メンバーに入って頂いたほか、研究の過程でそのような方々に話をうかがい、それまでにない視点や知見を得ることができた。しかし、日本では専門性の高い分野で働いている障害者はまだまだ少なく、障害を理由にして本来の能力を発揮できないのは、自立を促す観点からも許される事ではない。また、彼らが社会に参画しなければ、生活保護や社会保障で対応することになるので、社会全体にとっても負担となる。

そもそも、「障害」とは何なのかという問いに対する答えは、実は難しい問題だ。障害者は全人口の約6%(740万人)、認知症高齢者や入院患者、メンタルヘルスの人々を含めると、10~15%もの人々が心身に不自由を感じていると言われている。普段生活していて、障害者を目にすることはあまり多くはないが、彼らの多くが自宅や施設にいて社会に出ていないので、日常生活で目にしないだけのことだ。10人に1人が心身に不自由を感じているという計算になるので、目にする機会は少なくとも、身の回りにごく自然に存在することだということになる。また、身体障害者の4分の1は、65歳以上で障害を負っている。つまり、私達もひょっとすると明日、事故で半身不随になるかもしれないし、病気で目が見えなくなるかもしれない。障害は、決して他人事ではないのだ。

私の知人で、先天的な病気で人工透析を受けながら大手メーカーで働いた経験のある人がいるが、彼は分類上は障害者だ。しかし、外見は普通だし、日曜日と木曜日に透析さえ受ければ、週1日残業が出来ないということ以外は何の支障もなく働くことが出来る。また、別の知人で、内部障害を持ち体力を要する仕事は出来ないという人がいるが、教員をしており、引率で長時間歩くなどといった仕事を避ければ、教員として普通に働けるという人もいる。つまり、健常者と障害者の間の線引きは、明確にあるようで実は曖昧なのではないか。そして、周りの人達が少し配慮すれば普通に社会参加し働くことができる彼らのような人達を、障害を理由に排除していいのだろうか。答えはノーだ。

健常者の中でも変わった人を見掛けることはあるし、健常者とは何なのかという問いにもぶち当たる。そもそもを考えていくと、健常者と障害者の線引きは不鮮明で区別がつかなくなっていく。結局、障害は人間の属性のごく一部あるいは個性に過ぎず、障害者手帳を持っている人が障害者だというのは、役所が勝手に決めた線引きに過ぎないのだ。そのような前提に立たなければ、多様性を受け入れる社会を作ることはできない。

極端な例だが、大多数の人が車椅子で生活していれば、スロープだらけの街となり、二足歩行の人は不便極まりない生活を送ることになる。耳の聞こえない人が大多数ならば、手話が第一言語となり、音声による情報伝達に頼る人が障害者となる。ここまで極端な例ではなくとも、海外に行けば、読めない字と聞き取れない言葉が飛び交う経験を誰しもがすることになる。言語も外国人の社会参画を妨げている障害となっており、自国では健常者でも、海外では障害者に近い存在になる。つまり、障害と呼ばれる個人の属性・個性が問題なのではなく、社会が障害を作り上げているのだと言えよう。障害者問題を考える時、手帳の有無だけを判断理由にするのは全く無意味だし、社会参画の機会が確保されない事は許されない。むしろ、障害があるがゆえに社会参画の機会を持てないこと自体が「障害」と考えるべきだ。

●「合理的配慮」とは ~双方の歩み寄りによる合意~

凸凹の多い多い道でベビーカーを押す女性と出くわしたら、あなたならどうするだろうか。この時彼女は移動に関する「障害」を持っていることになるが、障害者手帳の有無や法律で規定されたこととは全く無関係に、あなたは道をあけてあげるだろう。つまり、本来的には、手帳の有無などの役所が勝手に決めた線引きに関わらず、障害を捉え、向き合わなければならないのだ。そしてここでようやく、「合理的配慮(reasonable accommodation)」という言葉が出てくる。

我が国では、2011年に制定された改正障害者基本法に、障害者が社会参画する上で合理的配慮が必要であるという条文がようやく盛り込まれた。また、来年2013年の通常国会では、合理的配慮がなされない場合には差別とみなす、という差別禁止法が制定される予定である。元々は、障害者の社会参画機会を確保する観点からアメリカを中心に始まったもので、解きほぐすととてもシンプルな考え方だ。アメリカでは、1973年に制定されたリハビリテーション法504条において、政府からの出資を受ける組織に対して合理的配慮を義務付けており、1990年のADA法(障害を持つアメリカ人の法律)で全ての機関に対象が広がった。合理的配慮とは、各障害者の個別ニーズに対して、当事者である支援提供機関(視察で訪問したのは大学)と障害者が直接対話・調整し、支援の内容を合意するというものだ。このプロセスを怠った場合には、障害者のニーズに対して門前払いをし、社会参加機会を損なったということになるので、差別とみなされる。

合理的配慮、差別と聞くと、大仰な印象を持つかもしれないが、具体例を聞くと分かりやすい。例えば、あなたが主催者としてシンポジウムを開催する際に、聴覚障害者の方がリアルタイムで傍聴したいと希望してきた場合、「後から詳細な議事録を渡します」と回答したら差別に該当する。その相手は、リアルタイムでの情報や双方向での意見交換等を求めているわけなので、これに対しては、手話通訳やパソコンノートテイクを提供することが求められる。ただし、このいずれの方法も経費がかかるので、支援提供側の事情も勘案して、コストの高い手話通訳ではなくパソコンノートテイクにしてほしい、というように調整して決めていく。別の例としては、文字を読むのが遅い学習障害者が大学の試験を受ける場合、試験時間を延長するというのも合理的配慮にあたる。この場合には、どれくらいの延長であれば妥当かを、大学と障害者本人がカウンセリングの場を設けて、双方の個別事情に基づき話し合い、調整・合意していく。このように当事者同士の調整・合意によって支援内容を個別に決めていくのだ。

日本の行政的な発想で考えると、現在の障害者自立支援法で1~6の障害程度区分に応じて利用可能なサービスを設定していることを受けて、「基準はないのか?」という疑問が浮かんでくるだろう。どの人が合理的配慮を提供すべき人で、どの人はその必要がないのか。実際、アメリカ視察に同席した行政職員は、しばらくの間「基準はないのか」という質問をし続けており、個別調整という発想を理解するまでに時間を要していたようだ。

では、実際どのようにしているのかと言うと、「あなたのニーズは合理的だが、我々のリソースはこうなのでここまでの支援しか出来ません。この支援内容でどうですか」、といったように対話を重ね、支援内容を決めていく。対話⇒調整⇒合意、というのが合理的配慮の手続きとなる。支援対象機関は無理なことまではせず、多大な財政負担を要するものは拒否することも出来る。双方の調整・合意が原則であり、支援提供側のリソースももちろん勘案されるため、無理を強いてまで支援を提供するという事態にはならない。要は、双方の歩み寄りによって、障害者の社会参加機会を確保しており、だからこそ「合理的」という形容詞がついているのだ。歩み寄りの範囲、内容、水準については、あらかじめ基準を設けるのではなく、40年間の間に社会的合意を積み重ねた結果、社会全体で妥当な支援の範囲や内容についての認識が共有されている。

合意内容に納得が出来ない場合には、障害者は不服申し立てをすることも出来る。しかし、訪問した大学にも不服申し立て機関があるとのことだったので申立件数を質問したところ、8年間で2件しかないとのことだった。年間数百件ある調整のうち、それだけしか不服申し立てがないことを鑑みても、当事者同士が対話を重ねることによって、調整・合意が的確になされており、その結果、双方が納得の上で支援が提供されているということが分かる。

●当事者が決める「公」~社会的合意の形成と市民社会のあり方~

この合理的配慮という考え方は、日本では無縁なものだろうか。確かに、日本の障害者支援のように、役所が細かく基準を作って線引きするほうが、第三者から見て分かりやすく、一見すると公平かもしれない。例えば、AさんとBさんは同じ障害程度区分に属しているので同じ支援を受けることが出来る、というのはとても分かりやすい。しかし、この2人のニーズは異なるかもしれない。Aさんは大学進学を希望して卒業後に就職することを希望している一方、Bさんは高校卒業後に家庭に入ることを望んでいるかもしれない。しかし、日本の場合には、あらかじめ定められた支援枠の中でしか対応できないため、それぞれのニーズを最大限適えることは出来ないし、そもそも個別のニーズを把握することすらないかもしれない。つまり、日本のやり方では、個人のニーズが一律の基準によって取捨されてしまうのだ。一方、合理的配慮においては、同じ障害程度でも、本人のニーズや支援機関の能力に応じて支援の中身が変わってくる。

また、アメリカで合理的配慮を行う場合には、証明書の提出は必ずしも義務付けていないが、日本の場合には、障害者手帳や障害程度区分、診断書などの提出が必要となるため、必ず制度の狭間に落ちる人が出てくる。日本で役所が定めた線引きとは、例えば、企業が健康相談医師を委嘱する際の助成金制度では、「4 級以上の内部障害者」・「3 級以上のせき髄損傷による肢体不自由者」・「精神障害者」・「てんかん性発作を伴う知的障害者」・「6 級以上の網膜色素変性症、糖尿病性網膜症、緑内障等による視覚障害者」の受け入れを応募条件としている。これらの線引きは、どんな根拠に基づいて設定されているのか不明確であるにも関わらず、画一的に支援対象者を取捨してしまうのだ。合理的配慮の場合には、このように制度の狭間に落ちる人は少なくなる。国は、詳細を条件づけることなく、具体的な処遇の決定を当事者間に委ねている。顔の見えない他の誰かが決めるのではなく、当事者同士が合意することで納得感が大きくなり、社会的合意も積み重なっていくのだ。

さて、ここまで話してきて、皆さんは大切なことに気付いただろうか。合理的配慮とは障害者政策に限った話ではないということである。「対話⇒調整⇒合意」のプロセスを個々の案件で積み重ねるにしても、これを社会的合意につなげるとしても、これこそ行政そのものの仕事ではないかということだ。国が決めた一律な基準に基づく支援に慣れている日本では、制度としていきなり採用することは難しいかもしれない。しかし、法律や制度に基づくことでなくとも、日常業務・行政の現場の運用、とくに人々の暮らしと密接な立場で仕事をする基礎自治体の現場において取り入れなければならない考え方だ。国の省庁が作った基準に沿うのではなく、当事者同士の対話・調整・合意を経て支援の可否、水準、内容を決めていく方法とは、正に「公」を「官」ではなく社会を構成する当事者同士が作る手法であり、市民社会や民主主義の基本であると思う。改めて、自分自身の仕事に立ち返り、自分の仕事や周囲の仕事において、「対話⇒調整⇒合意」のプロセス、その根本にある基本的な考え方がどのように適応されるのか、他人事ではなく、考えてみてほしい。

 

Q&A

Q.類似ケースが出てくることも想定されるが、裁判の判例のように、40年の蓄積をデータベース化しているのか。

A.どのケースも必ず調整・合意手続きに関する記録を取っており、大学の障害者支援室同士のネットワークでは、この記録をベースにしたデータベースのようなものはあるとのことだった。ただし、このデータベースが基準となるわけではなく、あくまでも当事者間の模索の積み重ねにより、社会的合意が形成されていっているという点が重要。視察先の中に、聴覚障害者の学生1,300人に対し専属手話通訳者が120人いるという大学があったが、この120名は、週40時間の勤務時間のうち、約20時間は手話通訳を行い、残りの時間は専門的な勉強を行うとのこと。これは、手話通訳者が専門知識を習得していなければ通訳が出来ないので、障害者も十分に学ぶことが出来ないためだが、40年前には、ボランティア程度の通訳者しか大学側は提供出来なかったとのこと。つまり、40年前には、ボランティア程度の通訳であっても合理的配慮に該当していたが、40年間の積み上げの中で大学側のリソースやキャパシティも向上し、それに合わせて合理的配慮の妥当性に関する社会的合意も形成され、向上していったということだ。このように、一律の基準を所与の条件とするのではなく、個別ケースの積み上げによって「合理的に」その範囲を向上させていっているという点は、示唆に富む。

Q.ニーズを自ら主張出来る障害者は合理的配慮によって救われると思うが、うまく主張出来ない人はどうなるのか。

A.ニーズを主張出来るということは、自立出来るということ。自立が困難な方々に対する支援(セーフティーネット)は、むしろ日本の方が充実していると思われる。日本の問題は、自立出来る方々にまで、枠をはめて支援レベルを決めてしまい、その結果、彼らも自立が出来なくなってしまっているということだ。少しの配慮で社会参加出来る方々に対しては、合理的配慮によって環境を整えることが重要だし、アメリカはこの部分における対応が非常に充実している。一方、アメリカでも、自立出来る障害者であっても、高校まで過分な支援を受けてきてしまっていると、自分のニーズをきちんと説明出来ない人もいるとのこと。その場合には、大学の障害者支援室側がカウンセリングを行い、論理的に説明する方法を教えることもあるそうだ。つまり、支援を受ける側である障害者サイドにも、自らのニーズを説明するという責任や、受けた支援を最大限活用して自立できるように努力する義務が課されており、日本のように一方的に支援される対象ではないということだ。

研修生の声、事務局所感

長らく「公」の大部分を「官」が独占してきた日本では、行政における公平性の確保は大原則とされ、その確保のために数多くの制度・基準が設けられてきた。その運用・執行を担う基礎自治体職員としては、「公」とは当事者同士が作る社会的合意であり、必ずしも一律の基準は必要なく歩み寄りによって決まる、という考え方は、なかなか腑に落ちなかったのではないかと思う。

しかし、一律の基準に基づいて運用したところで、公平性は本当に確保できるのだろうか。その「公平性」とは、誰の目から見た、誰のための公平性だろうか。日本的“色眼鏡”を外して、日本の行政の常識を疑って考える一材料としてほしい。「一律公平を隠れ蓑にして、思考停止している状態なのではないかと思った」という感想を持った研修生もいたようだ。

日本語訳の「配慮」という言葉からは、支援提供側から障害者に対する一方通行な印象を受けるかもしれない。しかし、障害者は、支援を受けるだけの弱者ではなく、支援提供側の状況を「配慮」することも求められている。つまり、双方の関係は決して一方通行ではなく、互いに「配慮」し、「歩み寄る」ことが重要なのだ。「意外と地域にはそのような考え方は元々あって、むしろ行政が絡むことで失くしてしまった視点かもしれない」と言う研修生もいた。

地域の現場に立つ時、異なる意見やすれ違う思惑、少数派の反発などに必ず向き合うことになる。その中で、地域の合意をどう形成していくか。住民自治と一口に言うのは簡単だが、地域として「公としての決断」を作り上げていくために、自らの役割や意識を常に問い直していくことが求められていると言えよう。

 

*1 米国ポートランド市における国外調査(2012年8月25日(土)~9月2日(日))では、少数派(マイノリティ)の意見反映や彼ら自身の活動を活発化させるためのリーダーシップ養成プログラム、Diversity and Civic Leadership Programについて話を聞いた。同プログラム担当者であるジェリ・ウィリアムズ氏(Ms. Jeri Williams)はネイティブアメリカン出身で、少数派市民団体にて草の根活動をリードしてきたという経歴の持ち主。同市は、少数派の社会参画を促進するにあたり、いわば市と対峙する存在であった活動家の彼女を市職員として採用し、その取り組みを加速させようとしている。2012年4月に採択された同市の包括的戦略計画である「ポートランドプラン」策定のプロセスにおいても、少数派の人々を巻き込み、その声を取り入れるべく、公開討議や他言語によるアンケート等を実施。このような取り組みの背景には、十数年後には市の人口構成が大きく変化し、全米有数の白人率の高いまちと言われるポートランド市も、その過半数以上を有色人種が占めることになる、という見通しがある。

*2 「週末学校で学んできた『公』のあり方」については、以下の講義レポートを参照:
「公は官か?」加藤秀樹(2011年度)
「自治をつくる」福嶋浩彦(2012年度)
「『市民の公共』をつくる」足立千賀子、小池博幸、福嶋浩彦(2012年度)
「官民連携とは何か」亀井善太郎(2012年度)

*3 近年、近年、「害」の字が好ましくないとして、「障がい」「障碍」「しょうがい」などの字を当てるケースが増えているが、障害学の研究では「社会の側が障害者を無力化している」という考え方で「障害」の字を用いる。本講義でも「障害を持っている個人ではなく、社会の側がバリアを作って障害者の社会参加を妨げていることが問題であり、バリア自体が障害である」という意味で、「障害」の字を用いている。

*4 内閣府大臣官房政府広報室『障害者に関する世論調査』(平成24年7月)。4%という周知度は、合理的配慮を前提とする「障害者差別禁止法(仮称)」についての検討の周知度を用いている。