2016年度のプログラムが終了しました(更新日:2016年12月21日)

江戸時代の官と民

キーワード:

講師:田中優子(法政大学教授)
講義日:2009年5月22日(金)
文責:週末学校事務局


「官」とは何か? ~職業と身分が一体化した「官」~
tanaka_1_MG_2204.JPG

 現代における「官」とは行政に携わる公務員や、立法府に属する政治家などと認識されている。しかしわが国の歴史を紐解くと、その概念とは必ずしも 一致しない史実が明らかとなる。
 江戸時代の「官」として、まず頭に浮かぶのは「武士」であるが、武士という呼称は職業的な意味合いを持つと同時に「身分」をも示している。つまり職業と 身分が一体化し、かつ職務を独占し、他階層の参入を排除している集団であり、現代では、皇室を除けば存在し得ない層といえる。こうした身分と職業の一体化 によって発生するのが"世襲"であるが、一代限りの官職に就いている者も多くいた。その一つが与力(よりき)と呼ばれる人々である。与力とは奉行などの上 級官職の配下に付属するいわば事務方の官僚。13~14歳頃から見習いを始め、かつ異動もない彼らは町の状況を熟知し、折に触れて奉行などに提言を行い、 かつ優秀な行政手腕の持ち主であった。ただし世襲については、実務能力が認められればしばしば行われていたのも事実だが、こうした世襲は概ね効を奏し、仮 にその弊害が生じたとしても、藩単位で一定期間世襲禁止措置を講じるなど、不正に対する自浄能力を持っていたのである。しばしば発布された奢侈(贅沢)禁 止令の対象が、町人のみならず武家をも対象にしていたことに、その一端を垣間見ることができるだろう。

自らを「おさめる」しくみ ~自治に見る調整・伝達機能~

 しかし奉行や与力などの官職は人数が限られており、町の行政すべてを網羅してはいなかったことは想像に難くない。実際、町人たちの奉行との接触機 会は皆無に等しかったという。そこで町の実質的な行政にあたったのが「町年寄」「町名主」「家主」といった武士階級に属さない町役人たちであり、道路の保 守管理、防犯防火、紛争調停などにあたっていた。町役人は最も町人との接触機会が多かった「家主」、これに助言や指令を与える「町名主」、さらに町役人の トップとして現在の知事のような職責を担っていた「町年寄」の三役で構成されていた。ちなみに農村においては村方三役(地方三役......「名主(庄 屋・肝煎)」「年寄」「百姓代」)が都市部における町年寄に相当し、双方とも町人と奉行、農民と代官の間に立ち意思疎通を図っていた。そもそも官による決 め事や御触れは、町人・農民が納得しないと実質的に機能しないのが通常であったため、このような"中間管理職"の存在は、住民自治に大きな効用をもたらす にとどまらず、「官」にとっても有用な存在といえた。また当時は、現代における「首長」は存在しなかったことにも留意したい。事実「町年寄」「村方三役」 とも三人で構成されており、各施策はこれら職掌内部での調整を経た上で、住民に伝達されていたのである。

「治」のせめぎあい ~「官と民」の曖昧化~

 町年寄や村方三役は事実上世襲されており、仮に「家」を「身分」に仮定するならば「官」の一形態と考えられなくもない。しかし、その職に就くまで の教育形態を見れば、その違いは歴然とする。当時、武家においては官職に就くための子弟教育が施す藩校が整備されていた。一方、町人・農民は有力者に寺子 屋の開設を要請し、教育の充実を図っていたが、藩校がすべて公金で賄われているのに対し、寺子屋は医師や家主といった、すでに経済的基盤を持つ人々がボラ ンティアで教育にあたっていたのである。町役人同様、収入源を確保している人々が、いわば名誉職として公職に就く慣習は当時多く見られたものだが、こうし た姿こそが自然な歴史だったと思えてならない。
 こうした「自らを治めるシステム」の確立は被差別階層においても同様で、穢多と呼ばれた人々は裁判権すら確立していたと同時に、皮革業にまつわる権利も 幕府によって保護されているなど、いわば治外法権的な自治組織を持っていたし、非人の場合は、芸人たちが組織する乞胸など、tanaka_2_MG_2102.JPG強力な組織を持っていた。さら に盲人は福祉を受けるどころか、自給のための当道座と呼ばれる自治組織を形成していたのである。
 このように、江戸時代においては小規模な自治組織がせめぎあいながら自治を 展開していたため、中央集権的な整理は無論なされておらず、民衆の中における「国家」という意識も皆無であった。ましてや、自治組織における役職は、集団 内ですでに経済的基盤を持つ者が就く、つまり"職業としての「官」"ではないとなれば、「官と民」という区別は非常に曖昧になり、むしろ人々は「公と私」 という思考様式を持つようになる。これは現代でも起こりうることで、たとえば一部で提唱されているベーシックインカムが仮に導入され、職業上の報酬を得な くとも生計が立ち行くということになれば"職業"ならぬ"人間の有り様"としての「官」が出現し、「官と民」のあり方が変化することになるだろう。

 

官の存在理由の低下 ~権力構造と搾取構造の固定化が招く弊害~

 ところで江戸時代においては、藩が財政悪化に陥った場合、節約、すなわち緊縮財政によって無駄を排除し、是正への道筋をつけることが一般的な傾向 であった。だが他方、当時はこのような志向と大きく矛盾する参勤交代という制度が存在していた。幕府とすれば多額の出費によって蓄財を抑制し、内乱を防ぐ ねらいがあったが、財政再建の大きな妨げであると同時に"納税者"にとっては経済的な見返りを実感できない施策でもあった。
 ただ一方で、これによって徳川体制が安定し、戦が起こらないという安心感が広がったことで、農業・産業技術の飛躍的な発展をもたらしたことも事実であ る。実際、外来種の栽培、綿花栽培、養蚕など、江戸時代には新しい産業が次々と興っていた。つまり年貢を原資として豊かな学識を持つ武士を育成し、彼らが さまざまな知識や情報を町人や農民に提供することで、産業の発展に一役買っていたといえなくもないのである。また参勤交代にともなう道路整備がやがて一般 の人や物の流れをも促し、結果として地域経済の活性化をもたらし、さらには江戸をはじめとする大都市の形成によって、物品や金銭の大量循環、文化の発展を もたらしたことは無視できない。
 それでも徳川幕府が終焉を避けられなかったのは、権力構造と搾取構造の固定化が変革の妨げとなっていたからである。これは官の肥大化が大きな要因であ る。たとえば幕末の武士階級(家族を含む)の人口比率は6.5%程度と推計されているが、武士を「官」とするならば、その比率は非常に高いといわざるをえ ない。しかも身分は世襲であり、その比率が減ることはない。実際、奉行所などにおける職掌が細分化され、役職が無限に増えるといった弊害をもたらしたので ある。これに対して「結」や「座」など、生活に近い単位で動いている自治組織は、変化に対して柔軟性を持ち、なおかつ円滑に機能しており、これによってま すます「官」たる武士の存在理由が乏しくなっていったことは想像に難くない。現代でも構造の固定化に起因する停滞は、様々な場面で起こっていると想像され る。ただ、江戸時代においては身分の固定化にともなう文字通りの世襲が諸問題を招いたのが、現代では、むしろ"世襲的な考え方"にこそ問題の根本があると 思えてならない。

<主な質問>

tanaka_3_MG_2161.JPGQ:歴史的に一揆が頻繁に起きた地域とそうでない地域の事情、背景の違いとは? またそれは現代における住民運動の多寡にも当てはまるだろうか?

A:地域間の貧富の差、またはいわゆる"県民性"によって違うと論じられることもあるが、一概には言えないのが実情。事実、地域の状況を知ろうとし ない鈍感な藩主や代官の存在、いわば官と民の関係悪化が一揆を招いたことも少なくないからである。島原の乱のように貧しい地域ではなくとも、過酷な年貢の 徴収が一揆の発端となったケースもある。現代においても、かつて一揆が少なかった秋田においては、後に世界遺産にも登録された白神山地の保護運動が非常に 激烈に展開された事実もある。地域による傾向を一概に論じるのではなく、個々のケースを綿密に分析する必要がある。

Q:江戸時代には機能していたはずの自治組織、現代における「自治会」の活動が、核家族化や都市化によって衰退しつつある。これを活性化するためのヒント を江戸時代の自治から得られるだろうか?

A:現代ではコミュニティ(共同体)の言葉の概念がまったく変わってしまっているため、非常に困難な問題といえる。農村部では現在でもコミュニティ が生きているが、これは収入を得る場と暮らしを営む場が共通しているため。江戸時代においては、都市部でもこうした形態が一般的だったが、現在は地方都市 でも両者が分離され、共同体の結束や必要性が低下している。利害の調整や共助なくしては......という切実さが存在していない。一つの課題が農業の再 生。若年層が農業に意義や誇りを見出せるような構造構築が急務。また本来住民が話し合うべき分野を行政が担ってしまっている現実もあるかもしれない。行政 が「自分たちに任せろ」、住民が「行政に任せておけ」という発想を持っているとしたら、それは転換しなければならない。

当日配布資料

・ 江戸時代の官と民(PDF)