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あるもの探しで地域を元気に:川南地元学

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講師:河野英樹(川南町健康福祉課課長補佐)
講義日:2012年6月3日(日)
文責:週末学校事務局 稲垣亜希子

本講義の目的

「どこにあるのか外からはよくわからない」、「何が売りなのかよくわからない」、「町のイメージが弱い!」。これが地元学ネットワーク主宰、吉本哲郎氏が宮崎県川南町を初めて訪れた際のコメントだった。当時、川南町農林水産課に所属し、川南町認定農業者協議会の事務局を担当していた河野英樹氏は、その衝撃的な、それでいて的を射ている発言にひどく落ち込んだそうだ。
しかし吉本氏の指摘した3点は、実は日本中の多くの自治体に当てはまることではないだろうか。「うちのまちには何もないから」とみな口癖のように言ってはいないだろうか。
戦後、日本の政治や行政は、国の経済発展を第一目的としてきた。経済発展のための方策として、地方に金をばらまき画一的なまちをつくり、地域を均質化してきてしまった。その結果、都市へのヒト・モノ・カネの一極集中が起き、地方では伝統産業の衰退、急激な過疎化など様々なゆがみが生じている。
その後河野氏が地域の人々と共に始めた「あるもの探し」は、近隣4町を巻き込んだ鍋合戦という形で花開いた。地元学によって川南町は変わったのだろうか。変わったのならば、まち、人がどのように変わったのだろうか。河野氏自身の気持ちの変化も感じながら、そもそも「地域を元気にする」とはどういうことなのか、そしてその担い手は誰なのか、考えてみよう。

講義

● きっかけは地元学との出会い
川南町は宮崎県のちょうど真ん中に位置する小さな町で、2010年の口蹄疫(家畜伝染病)の被害が甚大だった地域だ。そのことで全国に名前が出たくらいで、それ以外には特に名前を知られることもない平凡な町である。私は2004年当時、農林水産課で認定農業者の協議会の事務局を担当していた。同協議会は創立から7年目を向かえ、活動が停滞していた。解散するか、それともどうにか頑張っていくかの選択を迫られた時期であった。
そんな折、たまたま参加した地元新聞社主催のフォーラムで、偶然に吉本哲郎さんと出会った。会場には県内の高千穂町が地元学に取り組んだ絵地図があちこちに貼ってあったのだが、それに衝撃を受け、川南町でもやってみようと思ったのが最初のきっかけだった。

早速同じ年の11月に川南町の「あるもの探し」を実施したのだが、その下調べということで吉本氏にはこっそりと10月に来てもらった。下調べの後に吉本氏から来たメールにあった感想が、「どこにあるかよく分からない」、「何が売りかよく分からない」、「イメージが弱い」の3つだった。パソコンの画面でその文字を見ているだけでとても辛かった。なんとなく感じていたことではあったが、我がまちの問題の本質をよその人にずばっと言われることは、想像していた以上にショックであった。その一方で、「やってやるぞ」と奮起した瞬間でもあった。

 

● 初めの「小さな一歩」がもたらした考えもしない「大きな影響」
さて、吉本氏に「川南のイメージを作れ」と言われたものの、具体的には何から始めようか・・・。さんざん悩んだが、まずは役場の後輩と二人で町内を歩くことにした。徐々にその他の同僚にも声をかけて、毎週土曜日の朝8時から町内をくまなく歩いた。ある日、子どもの頃よく遊んでいた川に久しぶりに近付いてみたところ、草木が生い茂り、一方でごみが散乱していて、しばらく人が近寄っていないことが一目瞭然だった。近くに住んでいるのに気付いていなかったことが不思議だったが、早速川掃除をすることにした。

川掃除は、忘れもしない2005年5月21日の朝6時から始めた。なぜそんな朝早くから始めたかといえば、同日、私は友人の結婚式に出席するために9時には家を出なければならなかったから。言いだしっぺが参加しないなんてありえない、8時までならできるだろう、じゃあ逆算して6時開始、と、ただそれだけの理由で朝6時から始めたわけだが、早朝の川掃除は10月まで約半年以上続けた。
たまたま私たちの活動が新聞に載ったことで、私が事務局を務めていた認定農業者協議会のメンバーを中心に、川掃除活動は別の地区にも広がっていった。川の流域にそれぞれ集落があるので、各集落の協議会のメンバーが同じような活動をしてくれたのである。

この活動は思わぬ副次的効果ももたらした。当時、川の上流にある畜産農家の数件が糞尿を垂れ流しているのではないかと町内で問題になっていたのだが、下流で川掃除をしていることが分かると、自主的に垂れ流しをやめたようだった。また、同じ流域にある食品会社は、かなりの資金を投じて自社に浄化槽を取り入れてくれた。結果として、この川の水を引き込んでいた下流の棚田には、きれいな水が満たされるようになった。
「仲間との川掃除」という小さな動きが、実に様々な影響を及ぼしたのである。

 

● 農家と漁師の日ごろの「食」から交流が始まる
次に認定農業者協議会の再生に取り組むことにした。地元学をやったことで、「川南町にあるもの」は分かった。それでは何と何を組み合わせて新しいものを作っていくのか、と考えたときに、同じ一次産業でありながら、これまで共にものづくりをしたことがなかった漁業と組み合わせることができないだろうかとの考えに至り、まずは集まってみようということになった。しかし、同じ町内にいるとは言え、農家と漁師は互いに知っているようで知らない関係にあった。漁師は午前2時~3時には出航し、午後3時のせりに間に合うように帰ってくる。魚を水揚げした後は次の漁の準備をして、夕方5時には晩酌をして6時には寝るという生活。一方、農家は夕方6時くらいに仕事を終え、その後学校の役員会に参加するなど、いわゆる普通の生活をしている。まったく生活スタイルが違う両者をどのように集めたらよいものか。そもそも漁師にも農家にも、「役場の会議室に来てくれ」と言ったところで理解を得られないだろうし、自分たちから赴いたとしても、堅苦しい話をしたところで分かってもらえないだろう。じゃあどうするかといえば、結局は焼酎を持って行って「夢を語りあいましょう」と言うしかない。しかし、料理屋さんでやるにも金がない、さあどうしようと場のあり方を考えていたときに吉本氏に相談したところ、「それぞれが日ごろ食べている、いつものおかずを持ち寄ってやったらどうだ」とアドバイスをもらい、自分の家の家庭料理を持ち寄って集まるスタイルにしてできたのが農家と漁師の「四季を食べる会」である。農家と漁師で川南町のイメージを作っていく試みがここから始まった。

 

● 「本気」の想いが通じた
「四季を食べる会」のルールは、①各家の家庭料理を一人一品以上、自分が食べる分、プラスアルファを持ち寄る、②お酒は認定農業者協議会と漁協の直売所建設検討委員会が負担する、③愚痴を言わずに夢を語る、の3つのみとし、農家と漁師の夢を語りあう会が2006年11月にスタートした。

第1回目は異様な雰囲気だった。元来、農家と漁師はとても仲が良いと言うわけでもない。お酒が入れば本当にけんかを始めるのではないか。マスコミを呼んでみたものの、急に心配になり、当日お断りしたくらいだった。というのも、先述したとおり糞尿による悪臭等に抗議し、漁師が100人以上も役場に怒鳴り込んできたことがあったくらい、漁師は畜産農家にあまり良い印象を持っていなかったようなのである。漁師は来てくれるだろうか、来てくれたとしても、それこそ殴り合いのけんかになってしまわないだろうかと本気で危惧したものだが、蓋を開けてみれば、漁師も農家も大勢で出かけて来てくれて、互いに夢を語りあい、大いに盛り上がることができた。誰にも増して養豚農家が喜んでいた。あの日のことを思い浮かべると自分自身、今でも思わず涙が出てしまうが、それほど喜んでもらえた第1回目の「四季を食べる会」だった。

第2回目を2007年1月に開催した際は、川南の地元学の成果物も会場に展示した。漁師も農家も、互いの日々の暮らしぶりを調べたものを見て、自分たちが普段見ているものがこんなにすごいんだなと新たな発見をし、感動していた。同じ川南町民だったのに、実際に触れ合う機会がなかったなと誰ともなく声が上がり、「四季を食べる会」は回数を重ねるごとに盛り上がった。盛り上がりすぎて酒代が莫大になり、協議会や委員会ではもはや負担できなくなり、第3回目以降は酒は自分たちで飲む分をそれぞれ持参することにした、というのは笑い話である。

当初は農業者漁業者を中心に始めた会だったが、途中からは自動車会社、薬剤師、料理屋さん等、あらゆる町内の人たちにも参加してもらうようにした。そうしている内に、「川南の新しいものを作ろう」という熱意が各々から沸きあがってきた。具体的には、「四季を食べる会」の農業者の代表が「もっと何かやりたいな」と言ったところ、漁協の幹部から「夜中にやっている遠洋漁業の水揚げに来てみなさいよ」と持ちかけられた。これは半分冗談で言ったようなもので、というのも近海ものの水揚げは午後3時からのせりにあわせて午後1時頃行うが、遠洋漁業の水揚げは近海漁と時間が重ならないように、夜中の3時に行う。常識的に考えれば無茶な話だ。しかし、農業者の代表は「よし、やる」と即答し、実行した。農家、商工業者、役場の職員らが参加し、夜中の水揚げ作業はその後半年も続いた。役場職員やサラリーマンは6時頃に作業を終わらせて帰るが、都合の付く人たちは昼過ぎまで無償で手伝った。そんな常軌を逸する行動が実を結んだのか、漁師たちも認定農業者協議会の会長を中心とするメンバーの本気度を理解し、いよいよ共に何かを作っていこうという機運が高まったのである。余談だが、この会長は川南町への情熱が強すぎて、昨年町長になってしまった。

 

● 川南町の「鍋」をつくる:住民主導による川南町のイメージ作り
さて、「共に何かをつくろう」という機運が盛り上がったところで、2008年1月の「冬を食べる会」の際に川南町を代表する「鍋」をつくろうという話になった。実は「四季を食べる会」を立ち上げた当初から、隣町の高鍋町からアドバイザーを入れていた。川南町の農家、漁師、その他町内の方々だけでは内輪の話になってしまう可能性があるため、外部の目が必要と考えたからだ。それが高鍋町にある焼酎メーカー、黒木本店の黒木社長だった。実はこの黒木氏、自身の高鍋町で「町名に鍋が付くのだから、町特産の鍋をつくろう」と言い続けていた方だったので、川南町で特産の鍋を作ろうと思うと提案してみたところ、すぐさまこれに賛成してくれ、高鍋町との鍋合戦をしようという話になった。

鍋合戦という試みは、既に山形県天童市で行われていたらしいのだが、当時そのことは全く知らなかったし、そもそも調査する時間もなく、高鍋町の商工会議所の職員と二人だけで頭をひねって企画した。鎧や甲冑は保育園の先生に頼んで、麦藁帽子とダンボールで作ってもらった。合戦風の会場は高鍋町の商工会の方々の力を借りて作った。2008年4月2日、川南町と高鍋町の2町で鍋合戦を行った。そのたった半年後には、西米良村を除く児湯郡すべての自治体を巻き込んだ鍋合戦へと発展した。もともと「児湯みんなの食農祭り」という3000人ばかりの(それでも多いが)イベントだったのだが、鍋合戦のときは10000人もの人が集まった。開催4回目となった昨年は、22000人以上の来場者があった。児湯郡の人口が約70000人なので、かなりの来場者数であることがイメージできると思う。

鍋合戦をきっかけとして、児湯郡のそれぞれの自治体でも新しい動きが始まっている。川南町のハマうどん(地元の小麦粉と粉末にしたシイラを混ぜて作ったうどん)、都農町のふぐ丼、高鍋町のキャベツロール丼など、自分たちのオリジナルの鍋を作ったことで、自ずと自分たちの足元を見ることになった結果と言えよう。

なお、2回目以降は大きなイベントとなったため、事務局は高鍋町の商工会議所に任せ、私自身は企画に携わっていない。ちなみに吉本氏をお招きした「あるもの探し」から第1回目の鍋合戦に至るまで、川南町役場の予算はゼロである。

 

● 鍋合戦はゴールではない、常に次のステージを目指す
鍋合戦実施の裏側には、こうした長い時間をかけた取り組みやしかけとともに、様々な人びとの情熱や行動、そして支えがあった。住民である農家や漁師、商工業者が受身の姿勢でこれらの行事に参加するのではなく、議論を交わしながら主体的に、また楽しみながら行動した。業種の壁を取り払い、川南の元気作りの具体を体現した。行政主導ではなく、住民主導+行政参加という形で、価値創造型の川南づくりをしたのだと考えている。地元学に取り組んでから鍋合戦に至るまで、実に4年の歳月がかかった。

「みんなでやっていこう」と言うエネルギーは大きくなったが、四季を食べる会が今後どう発展していくのか、いくつかの課題がある。鍋合戦自体は川南町の食を通じた表現の場と個人的には捉えている。鍋合戦を行うことや参加することが目的となってはいけない。

最後に東北の民俗研究家、結城登美雄さんが『地元学からの出発』で著した文章を紹介したい。

「自分が暮らす地域をよくしたいと思うのは、誰もが抱く願いのひとつだが、この国ではそれがなかなかうまく行かなかった。
都市であれ地方であれ、そこに住む人々がいつの間にかバラバラになっていて、地域づくりの役割を行政に丸投げしてしまっていて、そのクセから抜け出せないでいる。
一方、住民から託された地域づくりの専従者である行政も、そこに暮らす人びとの声に耳を傾けることは少なく、有識者や霞ヶ関などの暮らしの現場からもっとも遠い人々の考えや思惑に支配され、画一的なものを押し付ける結果になっているような気がする。
私は近頃つくづくと思うのだが、自分でそれをやろうとしない人間が考えた計画や事業は、たとえそれがどれほどまことしやかで立派に見えても、暮らしの現場を説得することはできないのではないか。そんな気がしている。そして反対に、たとえ考え方は未熟で計画は手落ちが多くても、そうしようと決めた人々の行動には人を納得させるものがある。為そうとする人びとが為すのであって、そうしようと思わない人びとが何人徒党を組んでも、現実と現場は変わらないのではなかろうか。
地域とは様々な思いや考え方、そして多様な生き方と喜怒哀楽を抱える人びとの集まりである。しかし誰もが心のどこかでわが暮らし、わが地域をよくしたいと思っている。だが、その思いや考えを出し合う場がほとんど失われてしまっているのも地域の現実である。
地元学とは、そうした異なる人びとの、それぞれの思いや考え方を持ち寄る場を作ることを第一のテーマとする。理念の正当性を主張し、押し付けるのではなく、たとえわずらわしくとも、ぐずぐずと様々な人びとの考え方につき合うのである。暮らしの現場はいっきに変わることはない、ぐずぐずと変わっていくのである。」

私にとっての「良い地域づくり」は「良い川南づくり」、「地域おこし」とは「川南おこし(時々は川南「怒り」)」とより分かりやすく身近なテーマを置きながら、これからも不休不急の精神でがんばっていきたいと思う。

研修生の声

「やってきたことだけ話します」と最初に断ってから講義を始めた河野氏。淡々とした語り口調とは裏腹に、同氏が「自分事として」、「自ら汗をかいて」、「本気で地域をよくしたいという強い想い」を持って、川南づくりに取り組んで来られたことが伝わる講義であった。「果たして自分自身にはそこまでの地域への愛情と、苦労に立ち向かう覚悟があるのか」と自問する研修生が多かったが、スタートは川の掃除からだったというお話が聞けたことで、「できることからのスタートであれば、自分も何かできるかもしれない」と考えることができたようだ。

「いつでもやめたかった、でもやめられないよう支えられている」という河野氏の隠さない言葉の裏には、「互いに励ましあい踏ん張った仲間」が大勢いたことが分かる。「自分の強い想いは不可欠だと思う一方で、自分一人ではきっと何もできなくて、想いを共にする仲間たちがいるからこそ続けられる」のだということが分かった。