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(国内調査)「私のまちづくり履歴から~職員に期待したいこと~」~熊本県水俣市~

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調査先:熊本県水俣市 吉井正澄(元水俣市長)
調査日:2013年6月29日(土)
文責:長野県箕輪町 土岐俊(2013年度参加者)

本調査の目的

「まちづくりはそこに住む人々の『想い』から始まる。」週末学校では、このメッセージを一貫して伝え続けている。この「そこに住む人々の『想い』」とはどのようなものだろうか。そして、そこからスタートしたまちづくりとは、どんな様相を呈しているのだろうか。

水俣病という苛烈を極める苦難を抱えながら、地域の自然や風土、そして人と人とのつながりを再起させ、人々が「ここ」に生きる希望を作ってきた熊本県水俣市。本調査では、その地を実際に訪れ、混乱の渦中に身を置きながらも、地域の再生のために尽力し続けてきたキーパーソンらにお会いする。そして、対話や議論を通じて、彼らの地域に対する想いや哲学を肌で感じると同時に、この地域が発する熱量に触れ、真のまちづくりとはどのようなものなのかを探る。

以下では、1994年の水俣病慰霊祭で水俣病に対する市の責任を認め、公式に謝罪、1995年には村山政権との交渉の末、未認定患者の政治的決着を図り、以降、環境都市という軸のもとに「もやい直し」を進めてきたというキーパーソン中のキーパーソン、吉井正澄元水俣市長にお話を伺った際の参加者レポートを紹介する。(国内調査全体については、こちらを参照)。

参加者レポート

元水俣市長の吉井です。市長を終えて12年になります。
かつて市長をしていた時、中国の天津市に呼ばれて訪問に行った時のことです。市役所の職員に大歓迎を受け、料理が前に並び、さあ、というタイミングなのに、質問がいつまでも終わらない。「人口3万人の水俣市の事例が、1千万都市の天津市で参考になるんでしょうか」と聞くと、「良い事例は古いとか新しいとか、規模が大きいとか小さいに関係なく普遍的な真理があり、それを活用するかは聞く人の才覚によるもの。丸ごと真似はしないが、天津市を構築する素材として取り入れたい」とのことでした。全国から来ている皆さん、どうかそんなつもりでお聞きいただければと思います。

●地域おこし、村おこしはなぜ行うのか
現在の市町村の状況はおしなべて同じようなレベルであり、近隣市町村で考えても大差なく、首長が変わっても生活レベルが上下するようなことはありませんし、安定的に暮らすことができるでしょう。しかし、世の中はどんどん効率優先になってきて、豊かではあるけれども、豊かさを実感することはなかなか出来にくいのではないでしょうか。あるいは、幸福もそうです。物質的な豊かさだけでなく、そこに心の豊かさを加えた社会を作ろう。様々な条件の中で生きている人が、生き生きと輝く社会を作ろう。そういう取り組みを、地域おこしと言うのだと思います。

●水俣のまちづくり
その視点から水俣のまちづくりを見ますと、水俣には営々と積み重ねてきた先輩の基盤が失われている、そういう中からまちづくりを始めなくてはならなかったのです。水俣病が発生したことによって、多くの方々がもがき苦しみながら尊い命を失い、人生を失い、健康被害を受けて苦しい生活を強いられました。健康だけではなく、地域社会が全て崩壊しました。

水俣はチッソとの運命共同体のまちでしたので、市民の7割近くがチッソと何らかの関係がある収入を得ていましたし、町の法人税収の半分以上はチッソにより賄われていました。チッソの倒産は、市の雇用、市そのものの崩壊を意味しました。ですから、市もチッソの側について応援したりしました。追い打ちをかけたのは風評被害です。水俣病は当初原因が分からなかったので、奇病・伝染する病気として扱われ、地域は村八分にされましたが、今度は村八分にした市民が市外で差別を受けます。水俣に生まれただけで、差別を受けました。魚だけでなく農産物も売れない、温泉は閑古鳥、水俣から出ていった市民は、水俣の出身であることをひた隠しにせざるを得ませんでした。

●チッソと水俣市
市は住民の生命、財産を守るのが仕事ですが、水俣はそれができないという状況になりました。市の崩壊の崖っぷちに立たされたのです。アリ地獄におちた蟻のように、もがけばもがくほど状況は悪くなる。水俣のまちづくりは、アリ地獄から這い上がることでした。水俣市民はそれを、「環境まちづくり」という高い理想を掲げて行うことにしました。

私は市議会議員を5期20年勤め、議長もしてきました。前市長は「全国を敵に回してもチッソを守る」ということを宣言し、チッソと市は運命共同体であると言っていました。水俣のあり方として、チッソを外したまちづくりなんて考えられないというものでした。

●世界の環境を取り巻く動向
そこで私は勉強を始めました。世の中の公害事情はどうなっているのか。足尾鉱毒事件はその後村がなくなっています。世界で公害から再生した事例はなかったのです。自分で考えるしかないと思いました。デンマークでは缶ビールはなかった。自動販売機がなかった。全てびん詰めでデポジット制度、リサイクル率ほぼ100%でした。ブラジルで環境サミットに参加しましたが、世界の趨勢として、持続可能な社会をつくるために環境を守ることが大切であり、経済発展とのバランスが難しいことを学びました。

オーストラリアでは、イギリスの流刑地という歴史にも関わらず、ほがらかで前向きな国家が形成されていて、そこで世代を超えた禍福の相殺というものを感じました。タスマニアでは、焼却所がなかったので廃棄物をどうしているのか聞いたところ、全て分別してリサイクルする、リサイクルできないものは作ってはいけないルールになっているという。驚きました。少々の不便さを楽しむことが大切だ、ということを聞いて、大きな示唆を受けました。

国内では、富良野市、町田市、我孫子市、神通寺市というリサイクルごみ分別の進んだ町を視察しました。そこで分別について学んで、環境保全することによって経済が発展し、持続可能な社会を作れる方向性を目指すべきだと、その先駆けとして水俣はありたいと思いました。そこで1992年に、水俣市の議会は環境と健康と福祉を大切にする水俣という議決をすることにしました。そしてそれをスローガンに1994年に私が市長に就任しました。

●水俣固有の個性と価値
その根底にあるのが行政としての地元学です。これまで地方都市は中央政府に習い、大都市に憧れ、模倣し、全国同一の画一的な政策を受け入れてきました。しかし、その結果、何も生み出さなかった。水俣の持つ個性をもとにして、新しいまちを作り出していくべきだと思いました。個性とは模倣できない独特の価値です。この価値探しを始めました。水俣の固有の価値とは何か。「水俣病」でした。世界に類を見ないものです。しかしそれを表明した途端、大反対を受けました。それは個性であるけれども、マイナスの個性であると。そこで、その負の個性をプラスに転換することが、水俣の再生であると位置づけて取り組むことにしました。そのために、水俣病と正面から向き合うことにしました。

その取り組みは成功したのか。私は成功したと思っています。人口の減少は止まりません。高齢化、過疎化も進んでいます。経済は企業の倒産が相次いでいます。しかし、環境の都市づくりのモデルとして高く評価され、忌み嫌われた水俣病を全国各地から小中学生が勉強に来てくれます。リピーターも多い。県下の中学校も、大学も、研究者も水俣に勉強しに来ます。資料館以外の施設にも視察が相次いでいます。水俣を研修の地として多くの外国人の皆さん、特にJICAが来てくれています。途上国で水俣に学びに来ない国はないだろうと言われています。環境首都コンクールでも優秀賞を頂いています。このように悲惨な公害のまちが、環境学習のまちへと変貌しつつあります。

●初の公式謝罪で賛否
では、どうしてそう変わったのか。当時は市民同士、患者同士に分かれて反目しあい、患者団体だけでも16あり、お互い挨拶もしない状況でした。行政不信もひどく、また、チッソの安定賃金闘争が起きていました。市民のきずなをまとめ、どう混乱を収めていくか。また、この問題については国、県の采配が大きく、市が主体的にマネージメントできない状況にありました。どうやって、環境都市づくりを市民に浸透させていくのか。市の職員はチッソ側と患者側の板挟みで発言できず、無気力になっていく。八方塞がりな状況でした。

そこでまず私がやったのは、「水俣病慰霊式」に犠牲者の遺族、患者を呼ぶことでした。それまでは行政だけでやっていた行事でした。そこで私は謝罪をしました。市は患者の生命と守る責務があった。しかし、それよりもチッソと国の側について、患者側に軸足を置かなかった。そして患者を非常に苦しめた。また、チッソが潰れると生活への影響が大きいことから、何の罪もない患者に誹謗中傷を加えて患者を苦しめた、その道義的な責任、罪を犯したことへの謝罪でした。

ところがこの謝罪に対して批判が相次ぎました。まず、国も県もこの問題について「過ちはない」という立場でしたので、腹を立てたのです。市民の一部からは、市長は患者と一緒になってチッソを潰す気か、という批判を受けました。

●目標と理念を市民全体で共有するために
しかし、幸いなことに、これまでボイコットしていた患者団体全てが式典に参加してくれました。これまで、患者と市の間には全くつながりがなかったのですが、それができた。それをきっかけに患者団体が交流を始めた。慰霊式の謝罪の中で、社会の再構築、市民のきずなを取り戻す、という話をしたのですが、それも反発を食らいました。

仲良くしようといっても、これまで散々いじめた人と今更仲良くなんかできない、というものです。全国からの支援者もほとんど反体制でした。政党も絡んでいました。そこで作られた様々な価値観の対立が、混乱を深める要素でした。

しかしほっておくわけにはいきません。価値観は違うということを認識しあい、自分と違う意見についても耳を傾けあることで、対話が可能になる。それが、立場を超えて人々の間に新しい価値観を生む。それが、新しい町づくりの価値観となると思いました。そのためには、団体同士が声を掛け合うことが必要だ、ということで学習会、討論会、講演会、作業の場などの場を用意して、対話の機会を作り続けていきました。しかし、行政主導では至難の業です。そこで、水俣病の学習会を開きましたが、参加者が毎回一緒です。

希望がないところには市民は自主的に参加しません。そこで、地域のあるもの探しをして地元学を実践していた吉本哲郎君の手法を使って、前から引っ張らず、メニューは行政が準備するけれども、選択は住民がする、話し合う、合意したら動き出す。動き出したら行政が支援する。住民が自ら動きだすような仕組みを作ることにしました。

「住民参加」でなく、反対に、住民が参加したときに行政が参加する、行政が住民の後押しをする「行政参加」という方法です。環境のまちづくりも、全くその方法で行いました。あて職は辞めて、市民から公募で委員を募集し、白紙委任した。自分たちで答えを出してくれ、というものです。その人たちが毎週土曜日、半年間活動しました。また、職員を連れて地域をくまなく歩き回り、入り込んでいきました。市長批判、行政批判がすごかったのですが、それがまちづくりの始めです。団体、企業などを2年間かけて回った。その結果まとめたのが環境計画です。

当時、ちょうど福祉施設や生涯学習施設などをまとめた複合施設を作ろうとしていました。それも市民に白紙委任したのですが、公募委員が沢山集まりました。第一回の会議は大混乱、喧嘩、ののしりあい。しかし、これまで批判しあい、反目しあっていた団体が一堂に会したのです。それでも2回、3回と開いていくと、何とかまとめたいという人が現れ、分科会ができ、話し合いが出来る素地ができた。そこで市が参加して具体的な提案、さらに視察をやってみた。すると、立場を超えて話す関係が生まれてきた。お互いを思いやる話も出てきた。13回の話し合いを重ね、社会福祉施設は完成し、皆仲良くなった。行政だけで作ったらこうはいかなかったし、批判だらけだったでしょう。しかし、自分たちで作ったので何も批判は出ませんでした。名前を「もやい直しセンター」と言います。その名の通り、反目していた団体同士が仲良くなり、新しい事業、イベントを共同でやるようになりました。目標と理念を市民全体で共有した出来事であったと思います。

●水俣のまちづくりとは
私は講演に行くと、このまちはどういうまちづくりを目指していますか、と必ず聞くようにしています。ほとんどの市民は答えられません。答えられるのは行政の職員くらいです。
ところが水俣は、中学・高校の生徒まで、「環境のまちづくりです」と答えます。それが水俣のまちづくりです。

●職員の役割
市職員の問題ですが、先ほど混乱のなかで消極的で無気力だと言いましたが、画一的でない考え方を持った職員が実はかなりいました。また、およそ普通の考え方とは全く違う視点を持っている人が、かなりいることが分かりました。その筆頭が吉本哲郎君です。この視点が新しいことを始めるときには特に大切ですが、そういう職員は組織の中で浮きます。みんなが煙たがる。嫌われる。阻害される。能力を発揮できない。それが組織です。それを打開するのがトップの役割、市長の役割だと思いました。
こういう事態に直面したとき、口を出すのか、知恵を出すかで分かれます。知恵を出す職員がいないとまちはよくならない。

●環境まちづくりの取り組み
環境のまちづくりは、水俣ではごみの分別から始まります。1993年に始まりますが、19分別から始まります。当時最先端の富良野でさえ6分別でしたら、マスコミが飛びつきました。大きな新聞見出しで取り扱われ、市民は「自分たちの取り組みはすごいことなんだ」と認識しました。市役所に怒鳴り込んでくる人もいました、19分別も市民をこき使ってさせるなど何事か、というものです。3週間後にテレビを見ているとその人がごみを捨てに来たところが映り、インタビューされています。面倒くさいでしょう、と話しかけられた彼は何と言ったか。「やれば楽しいですよ」とこう言った。一瞬にしてテレビが彼を推進派に変えてしまったのです。

人は、話題になり、注目され、評価されると自信と誇りが生まれます。嫌なことでもやるようになります。それが循環していきます。そこから環境マイスター制度、レジ袋マイバック運動、環境ISO取得などの取り組みがスタートしました。

●水俣独自の環境ISOと、産廃業者の誘致
環境ISOについては、自己開発するように、そして水俣らしいISOを作りなさいと指示したところ、6か月で取得しました。自己開発型のISOというのは全国初でした。独自の取り組みとして学校ISO、市民ISOなど水俣ならではのものが出来ました。

ゴミの分別は分別だけではだめで、分別したごみがどう生かされていくか、資源化されるかが大切ですし、それが産業にならなくてはいけません。そこで、通産省の補助金を申請して産廃企業を誘致しようとしたのですが、先駆性、モデル性がないと言われて却下されました。しかし担当者が勉強して粘り強く交渉し、とうとう日本一小さいけれども先駆性、モデル性があると認められました。現在は10社ほどあると思います。市として環境を整え、市職員全員がセールスマンとなり、市としての知名度を上げながら企業を迎える体制をとることが大切だと思います。県の課長が一声かけたからと言って、企業が来るようなことは絶対にありません。

産廃工場が増えることについて市民から不安の声が上がりましたが、国や県よりも厳しい環境基準を適用し、また工場は全て公開としてもらいました。お互いに安心な関係が生まれ、小学生や中学生も見学に来るようになりました。

●職員提案を活かす
職員が提案しても採用されなければ、次からは提案してきません。そこで、私は出来る限り、職員の提案を採用するようにしました。またボツになった提案も、話し合ったり電話したりするなどしてつないでいきます。そうすれば、ボツになってもどんどん職員は提案をしてきてくれます。色々な提案に助けられたと思っています。

●私の考える、これからの水俣
これから水俣はどうすればいいのか。
私の考えでは、人口は増えず、過疎、高齢化します。これは全国どこでも一緒です。
しかし、人口は増えなくても、経済的にも文化的にも満足度の高いまちは出来ると思います。また、安心安全なまちづくりもできるでしょう。その方向に進んでいくと思います。そのためにはこれまで取り組んできた環境のまちづくりを愚直に推進していくことだと思います。出来ればトップになること。そうすれば注目も集まるし、情報も集まります。中で働く人たちも自信と誇りを持ちます。このことが大切です。

●新しい動きへの期待
また、今日見えられるそうですが、「あばぁこんね」の皆さんのような多職種のつながり、これまで反目しあっていた様々な団体のつながり、それは世代を超えた禍福の相殺、タスマニアに見られるような悲劇を幸福に、豊かさに変えていく取り組みが今水俣に見られることを心強く感じています。

今日、私がお話した中から、世代を超えて普遍的な価値や要素を皆さんが見つけ出してくれたら幸いです。

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Q:吉井さんは自分がやったのではなく、職員の皆さんが頑張ったということを繰り返し述べられています。今日は全国の地域の市町村職員が今日は集まっています。彼らに対して水俣でもやい直しをされた経験から、エールをお願いします。

A:型を破るということが大切だと思います。市職員として画一的な行動をしないと仲間外れになりますが、変わった視点こそ大切ですし、まちを新しくしていきます。変わった勉強をしなければ変わった視点は持てないでしょう。批判を楽しみに変えていく、水俣の経験からも苦しさを楽しさに変えることが大切だと思います。
批判にめげず、頑張ってください。

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