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(国内調査)杉本水産:環境マイスターのものづくり現場~熊本県水俣市~

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調査先:熊本県水俣市 杉本水産 杉本肇
調査日:2013年6月30日(日)
文責:①兵庫県神戸市 西原美千代、②埼玉県草加市 成田圭子(2013年度参加者)

本調査の目的

「まちづくりはそこに住む人々の『想い』から始まる。」週末学校では、このメッセージを一貫して伝え続けている。この「そこに住む人々の『想い』」とはどのようなものだろうか。そして、そこからスタートしたまちづくりとは、どんな様相を呈しているのだろうか。

水俣病という苛烈を極める苦難を抱えながら、地域の自然や風土、そして人と人とのつながりを再起させ、人々が「ここ」に生きる希望を作ってきた熊本県水俣市。本調査では、その地を実際に訪れ、混乱の渦中に身を置きながらも、地域の再生のために尽力し続けてきたキーパーソンらにお会いする。そして、対話や議論を通じて、彼らの地域に対する想いや哲学を肌で感じると同時に、この地域が発する熱量に触れ、真のまちづくりとはどのようなものなのかを探る。

以下では、不知火海のイリコ漁師・みかん農家で、水俣市環境マイスターにも認定されている杉本肇さんにお会いした際の、参加者レポートを紹介する(国内調査全体については、こちらを参照)。

参加者レポート①:兵庫県神戸市 西原美千代

●6月29日 あさひ荘にて
 懇親会で登場した水俣のヒーロー、自称ビジュアル系3人組ロックバンド「やうちブラザーズ」は、本当に衝撃的だった。上半身裸で派手な腰巻、造花のレイ、中華帽や花の被り物、カラフルなメイク。次々に繰り出される体を張った芸と、自虐ネタ満載の歌。メンバーのうちに2人が、昨日行った資料館で企画展示されていた杉本兄弟だと気づくまでに、暫く時間が必要だった。

●6月28日 水俣市立水俣病資料館にて
 海辺に立つ兄弟漁師の写真。その横には「この笑顔の理由を知りたいか」と書かれている。写真の被写体は、杉本肇さんと、その弟の実さん。茂道地区で最初の水俣発症者は杉本家から出た。肇さんの母・栄子さんも水俣病患者だった。体中の痛みがあり、肇さんたちに運動会に持たせるおにぎりが握れず、母が何とか握ったおにぎりを、肇さんが食べようとしたら崩れてしまった。それでも肇さんは「母ちゃん、おいしかった」と言った。「この笑顔の理由」は、そういうことだと、写真の前で吉本哲郎さんが話していた。

●6月30日 水俣茂道地区にて
 水俣調査の最終日。初日からの雨は、結局、一度も止まなかった。
 やうちブラザーズのはーちゃんは、今日は本業の漁師の顔だ。天気が悪く、海が濁っているので漁には出なかったということで、実際にいりこをゆがくところは見せていただけなかったが、小さな工場の小さな釜が、杉本水産の事業内容を物語る。「大きい釜でゆがかないと、味が良い。付加価値をつけることが必要」と肇さん。
 眼前に広がる海は、濁っていると言われてもピンと来ないほど、透明で美しい。ちりめんは沖合いで漁をするが、区画権の関係で、隣の地区の湯の児には行けず、もし区画を越えると網を取り上げられる。「今は海上保安庁のレーダーがあるし、船に魚群探知機がついてるから、うっかり間違えました、は通用しない」ということらしい。
 本当に美しい海は、肇さんが子どもの頃と変わらぬ透明度であるという。「こんなに綺麗な海なのに、汚染物質が排水される映像ばかりテレビで流れて、悔しかった」と話される肇さん。
 汚染物質は、チッソが海に流したメチル水銀である。この水銀が原因で水俣病が発生し、茂道地区の住民の3分の1は認定患者だ。水俣病が原因不明の奇病として扱われていた時、患者家族は差別の対象となり、それまでの村社会は崩壊。杉本家も、ひっそりと息を潜めて暮らしていくことを余儀なくされた。
 両親も水俣病を発病していたため、5人兄弟の長男である肇さんは、父親の役割を背負うようになる。小学校5年生のとき、両親が入院し、子どもたちだけで3ヶ月を過ごした時も、担任の先生にさえ言えなかった。大人は水俣病について口を閉ざしていたので、何も話してはいけないと思ったという。家族の事情を飲み込んで、どうやって弟たちを育てていこうか悩む肇少年は、それでも暫くすると「兄弟だけもいいな」と感じるようになる。体中に痛みのある母の面倒を見なくて済む。しかし、母恋しさの余り、母の貼り薬を隠し持って眠る弟たちの気持ちを知り、複雑な心境に陥る。
 青年期に家出をしたこと、吉本哲郎さんとの最悪な出会い、若い人たちに対する思い。何もかもを照れくさそうな表情で話される肇さんは、「食べ物に毒を入れてはいけない。無添加・無着色のいりこを作り続ける」と、受け継ぐべきものを明確に断言された。
 大切なものは、人それぞれだ。水俣の環境マイスターたちは、「環境と健康を大切にするものづくり」を大切にしている。水俣病は食べ物が原因で発症したのだから、食べ物に毒を入れてはいけない。農薬、化学肥料、添加物は、健康に悪影響を与える毒。その信念を貫くことは、易しいことではない。強い信念を支える社会的システムがあるから、マイスターの信念を行政が後押しするから、水俣の全てが環境を志向しているから、無添加・無着色のいりこは、受け継がれて行く。
 水俣病は、水俣の全てを破壊した。想像もできないような分断、差別、不信、猜疑心、恨みが、水俣を覆い尽くしただろう。健康を失い、家族を失い、地域社会を失い、その中で摑み取った信念を、余所者が真似ることなど到底できない。余所者は余所者の視点で、それぞれの場所で、水俣を思いながら、水俣とは違った信念を摑み取るしかないのだ。

参加者レポート②:埼玉県草加市 成田圭子

 水俣滞在の最終日、水俣病の被害者を親に持つ杉本水産を訪問しました。杉本水産は水俣病の多発地域であった茂道地区にあります。時折、小雨がぱらつき、空は雲がかっており、あいにくの天気。遠浅の不知火海から打ち寄せる波の音を背景に、杉本さんは話し始めました。

 不知火海は浅く、山に囲まれた内海なので、大きい波はなく穏やかな海です。また、晴天率も高いため、1年間のうち250日は漁が出来ます。
 かつては「のさりの海」として魚がたくさん取れました。しかし、今は魚が減ってきており、昔ほど量が穫れなくなってきています。そこで、穫ってから加工することで付加価値を付け、販売をしています。杉本水産では、自ら穫ったいりこを、加工場で湯であげています。小さな釜で炊くことで、ダシが濃くなり、美味しいちりめんが出来ます。また、これからはただ魚を穫るだけでなく、海が穏やかということを利用して、藻場の育成に力をいれ、わかめ、昆布などの海藻などを穫ることを考えています。
 これまで水俣は海が豊かだったので、養殖はしてきませんでした。そのおかげで海は汚れることがありませんでした。これからはこのきれいな海を守るために、環境とどう対応して漁を続けていくかを考えています。

 今日は、雨が降ったあとなので、濁っていますが、(と、おっしゃいましたが、とても透明できれいな海でした。)いつもは10~20mの透明度があります。子どもの頃と透明度は変わっていません。子ども心に、こんなにきれいな海なのに汚れたイメージが全国に伝わることがとても悲しかったです。写真を撮りに来るカメラマンが嫌いでした。

 この茂道地区は、3分の1が水俣病認定患者であり、水俣病の多発地区でした。患者と患者でない人、患者同士で差別が始まって、みんな体だけでなく心も病んでしまっていました。自分はまだ小学生でしたが、自分たちがどう生きるかを考えなければなりませんでした。

 ここ茂道地区には山ではみかんを育てています。一時期、漁を止めて、みかん栽培を始めた時もありましたが、上手く行きませんでした。水俣病患者は、体の自由が効きません。体力的に漁業は出来ないので、みかん栽培をしてみましたが、みかんを育てる過程で必要な消毒作業が出来ないのです。そのため、形はとても不揃いのみかんが出来てしまいました。消毒をしていないのだから体に良いみかんだと販売してくれる方がいました。しかし、毒の入ったものを売っているのかという批判はありましたし、やはり漁をして魚を売りたいという気持ちがありました。漁をするために、まずは魚の健康状態を把握しようと今から30年前にいりこの検体を行い、水銀値を計りました。水銀値はとても少ないことが分かり、漁業を再開するに至りました。水俣病は食べ物で病気になるものでした。だからこれからは食べ物で病気を治したいという気持ちで無添加、無着色にこだわって加工をしています。

 自分は、水俣を離れていたときがありました。平成4年に水俣に帰りました。当時はまだまだ水俣病のことは語れない時代でした。
 吉本さんとの出会いは、水俣に帰ってきてからです。漁から帰ってくると、薬草のことでと電話が掛かってきました。当時、両親は体のためにと薬草を煎じて飲んだりしていたので、ぜひにとお願いしたところ、吉本さんのはきはきしない言い方で聞き取れなかったらしく、薬草ではなく役所の人でした。また、吉本さんが来たときは、魚の大群が来たのに、自分たちのタイミングが悪く、隣の船に奪われてしまった時でした。漁に出かけたものは皆、雰囲気悪く加工をしている中で、吉本さんは1人、「美味しい」と言っているので、最初のイメージはとても悪いものでした。しかし、それから約20年間に渡り、本物のものづくりなど、たくさんのお話を聞きました。役所は何も話を聞いてくれない、というイメージがありましたが、話を聞いてくれる人もいたのだと思います。

 自分は5人兄弟の1番上でした。両親は水俣病で入退院を繰り返し、自分は小学生でしたが、下の子どもたちの面倒を見なければなりませんでした。一番記憶に残っているのは、自分が小学5年生の時です。両親ともに入院し、3ヶ月間子どもたちだけで暮らさなければなりませんでした。子どもながらに、どうやって弟たちとやっていこうか、育てていこうか考えました。また、両親の入院を先生には言えませんでした。水俣病について、大人は口をつぐんで何も話さなかったからです。大変でしたが、1ヶ月もたつと、なんとか出来ると思うようになりました。正直なところ、当時の自分にとって母は世話をしなければならないので、煩わしく思うところもありました。
 そのころ、4男、5男は小学校に入る前でした。両親は、痛みを和らげるために、サロンパスなどの湿布を貼っていて、2人は良くその湿布で遊んでいました。両親がいない3ヶ月のある時、その湿布が大量に無くなってしまった時がありました。調べたところ、4男、5男のしわざと分かりました。叱ると2人とも黙って泣くのです。問いただしたところ、「かあちゃんがこいしかけん」と言うのです。母はいつも湿布を貼っていたので、湿布は母のにおいがする、ということで持ち出していたのでした。自分にとっては煩わしかった母ですが、まだ小さい2人には母だったのだと実感しました。思えば、母は、望みは聞いてくれなかったことが多かったけれど、面倒見が良かったと思います。
 水俣病は世間からすると本当に暗い出来事ですが、こうして自分はすごく大事なことを知ることが出来ました。水俣病のことをちゃんと伝えていかなければと思っています。

 自分が小学6年の時に、ようやく裁判が終わりました。多額の補償金が入り、家は生活が楽になったからか、親からはもう頑張らなくてもいいと言われました。それまで親がわりとして生きてきた自分は、もう自分はいらないのかと思い、家出をして沖縄まで出て行ったこともありました。

 毎年、5月1日には慰霊式があります。そこでは中学生が誓いの言葉を発表します。誓いの言葉の中に、自分は水俣に生まれた責任がある。という言葉がありました。中学生にまで責任を負わせてしまうなんて、あまりにも重くて申し訳ないと思いました。自分が子どものころは、水俣がすごく好きでしたが、胸をはって言うことができませんでした。しかし、今は子ども達が素直に言えるような時代になって本当に嬉しいです。そういう子ども達がたくさん出来るように、自分も仕事を頑張っていきたいと思っています。
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 杉本さんのお話は、水俣病を恨んだり、辛さ悲しさばかりではありませんでした。水俣病を乗り越えて生きていく人間の強さを感じました。人は、いかなる逆境にいても「おきたことに学び、ここに生きる希望をつくる」生き方を見いだせるのです。その見いだす過程にはどれだけの辛さ、悲しさがあったことでしょうか。きっと水俣の人たちは最初から強かったのではありません。強くなろう、そう思って行動してきたことで、強さを手に入れてきたのだと思います。

 見学の最後、杉本さんが加工したちりめんを頂きました。杉本さんの思いのこもったちりめんはそれはとても美味しいものでした。
 美味しい物には物語があると吉本さんはおっしゃいました。それは、ただ味が美味しいだけじゃない。美味しさは、その後ろにあるたくさんの時間、人の思いがあってからこそ、本当に美味しいのだと思います。そして頂くときには、その思いを感じて頂くのです。食べ物を通じて、思いを受け取っているようで、ものすごく責任のあることをしているような気もします。食べることで生産者とつながるということは、きっとこういうことだと思います。毎日の食事の中で、その育てた人の思いを私達は受け止めることが果たして出来ているか、今一度考えたいと思います。

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