2016年度のプログラムが終了しました(更新日:2016年12月21日)

暮らしを守る~ヤマセンの覚悟~

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講師:河野和義(株式会社八木澤商店 取締役会長)
日時:2014年6月7日(土)14:15~15:45
文責:北海道白老町 貮又 聖規(2014年度参加者)

本講義の目的

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東日本大震災の津波は、三陸沿岸地域に甚大な被害をもたらし、人々の生活を一気に破壊した。それでも、壊滅したまちの暮らしを守ろうと、何の支援も待たずいち早く立ち上がったのが、陸前高田で醸造業を200年以上営んできた老舗、八木澤商店、通称ヤマセンだ。

ヤマセンが再建を宣言したのは、発災から1カ月も経たない4月1日。極限の状態にありながらこの決断をしたのは、「雇用を守ることを通じて、これ以上の犠牲を出さない。生活の基盤を奪われて、未来を失って、心が壊れて死ぬ人が出ないように。そういうまちを作るのが生き残った者の使命」と考えたためだ。社員を一人も解雇せず、支援物資を配るのも業務として認め、被災したまちのために働く社員達に給料を払い続けた。震災から約1年は、同業他社が委託製造した商品を販売し、製造業としてのジレンマと戦いながらも雇用を守り続けた。「八木澤は復活します」というパンフレットを一軒一軒に配り続け、地域を励まし続けた。行政からの支援は、一度も期待しなかった。

震災から丸3年。戦い続けるヤマセンの周りには、吸い寄せられるように全国から支援が集まり、昨年10月には、市内の高台に本社兼店舗と隣町に製造工場とを開設した。ここに辿り着くまでに、たくさんの奇跡も起こった。今やヤマセンは、ゼロから立ち上がる陸前高田の希望だ。

どんな状況でも、「自立しようという精神を持ち続ければ、いつかどこかにつながる」と河野氏は断言する。何にもなくなったまちの中で、ヤマセンは何を見出したのだろうか。いつ折れてもおかしくない状態の中で、何がヤマセンを支え、再建を実現し、この地の暮らしを守ってきたのかを考えたい。

講義内容

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●まちも会社も全て無くなった

陸前高田は、岩手県の最南端のまち。私は、203年目の6分間で何もかも失った男です。八木澤商店は創業1807年ですが、東日本大震災で何もかも失くした。とある記者の方が震災前から八木澤を取材してくださっていたが、震災の4日後に掲載された彼の記事は、50万人くらいの方々に読んでいただいたということだった。そこから広がって、震災まで全く見ず知らずの福井市の書画家、笠廣船(りゅうこうしゅう)先生が色紙を150枚送ってくれた。「ゆっくりね のんびりと」、「君がいないと困る」など、その色紙があまりにも素敵で、商品のラベルの文字にしていただいた。人に助けられている。

八木澤商店は気仙町今泉地区にあったが、八木澤の土蔵の裏手には350年の文化財があった。つまり350年近く、そこは津波にやられていないということ。日頃から、その文化財脇にある100段の階段がある諏訪神社で、独自に避難訓練をしていた。行政からは、いつも八木澤だけ違う場所で訓練していると批判されていた。

震災の日、陸前高田市指定の3階建ての小学校の窓ガラスは尽き抜けてしまった。ということは、15メートルから18メートルくらいの津波だった。寒いからと校庭に駐車した車にいた方は全滅してしまった。

●宝は子どもたち

震災から1年半後に分かったことがあります。この小学校に一人通れるだけの山道がある。地域のコミュニティの会長たちは、「宝は子どもたちだ」と先に山に避難させた。
私には孫が5人いる。長男坊の2番目の孫が当時4年生、とてもおっとりした子どもだ。大人も子どもも小学校のグランドに避難していた。孫は津波が来ないからと途中、学校のトイレに行ってしまった。戻った時には子どもたちは全員おらず、地域のお年寄りにお尻を押されながら山に登っていった。
途中でお年寄りの力が無くなっていて、後ろを振り返ったら、そのお年寄りは仰向けになって流されていた。子供たちの中で一番危なかったのは、うちの孫だった。孫はこのことを一年半話すことが出来なかった。
それ以来毎日、孫は「絶対に僕は前向きで生きていくことをお約束します」と拝んでいる。そんなことを言う子ではなかった。小学校6年生では、生徒会長に立候補した。「大きい声でありがとうと言える学校にする」、「いじめが全くない学校にする」と。それを守った。

社員が全部で40名。27人が家を失った。10人が家族を亡くした。旦那を亡くしたのが3人もいる。
350年残っていた文化財も何も無くなってしまった。役所の指定した33ヶ所の避難所のうち、28ヶ所が壊滅した。役所が言ってはいけないことを言った。「想定外」と。自分たちも想定外だったと。私の地域では、両親も亡くなりたった一人という震災孤児が2人出た。陸前高田で中学生以下では27名、高校生では6名の震災孤児がいる。片親を亡くした子供たちは150人もいる。
うちの社員は役所のいうことを聞かずに諏訪神社に逃げて、ここに逃げた全員が助かった。しかし私は大事な社員を1名亡くしてしまった。地域の消防団員で、水門を閉めに行って帰ってこなかった。陸前高田の消防団は、被災地の中で一番被害が多かった。今では、消防団には無線を持たせる等、あれほどの被害があってから初めて変わっていく。

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●諦めない気持ちが奇跡を生んだ

震災1ヵ月前、釜石の水産技術センター・海洋微生物研究所の方が、「他の醬油屋のもろみに入っていない凄い微生物が、お宅のもろみに入っているということが分かりました」と尋ねてきた。海の微生物とお宅のもろみの微生物を合わせたら癌の特効薬が出来るかもしれないと。
震災後、研究所職員の及川さんは、被害にあった研究所の状況を見て、もろみを探すのを諦めてしまっていた。しかし、八木澤商店の4月1日の社員総会の模様がテレビで全国・世界に流れたのを観て、「一目で諦めた僕が恥ずかしい」と瓦礫の中を泣きながら這いつくばって探したそうだ。少しずつ片づけていくと、一つだけ倒れていないロッカーがあった。もしやとロッカーのふたを開けたら、一番上にもろみがあった。
何を言いたいか。積極的にやろうとしたからこのようなドラマが生まれた。奇跡がおきた。社員もみんな解雇しようとしたら、テレビにもなんにも映らなかった。県の醸造試験所でもろみを培養していただいて、増えていくのを見ているうちに工場を建てる気になっていった。

●陸前高田の宮大工を世界へ

震災直後は同業他社に製造を委託してその商品を販売、12月からは隣の一関市花泉町に工場を借りてしょうゆ加工品の製造を開始していたが、一関市大東町大原に新工場を建てました。震災の次の年の5月には、地鎮祭を執り行い着工しました。
いち早く陸前高田の外に工場を建てたことで、八木澤は陸前高田を捨てるのかと言われるようになった。そうではない、苦渋の決断だった。本社は絶対に陸前高田に建てようと決めていた。

糸井重里さんが、震災後、ブログに次のようなメッセージを書いた。
「今度の震災で私は大発見しました。アメリカでちょっとおかしくなると、日本という国はたちまち経済がおかしくなってしまうようになりました。その時、大企業ほど人を人と思わず、減給する、首を切る。今度の震災で、全く無名の会社だが、パートまで含めて1人も解雇せず、挙句の果てに2人の新入社員も入れちゃったアホな親子がいます。私はこのアホさが本当の日本人だと思います。私は、一生見続け一生応援します。」

糸井さんは気仙沼に事務所を作って情報発信をし始めたのですが、その関係で京都の有名な数寄屋づくりの職人を40人持っている和風の建築家の先生が助けに来てくれた。
床を直す500万円は貴方が出してください、それ以上はお金は一切心配ないからと。その先生より出された条件は、腕の良い気仙大工をを2~3人呼んでくれ、ということだけだった。そんなの簡単だと5人紹介した。

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その先生が言うには、いずれ今、陸前高田は建築ラッシュになる、気仙杉、気仙の宮大工、技を使って陸前高田株式会社の商品を作りなさいと。チップにしかならない間伐材を修正した木のサッシ、地元の大工に設計図を渡し気仙の杉だけで釘を使わない机を作ってくれた。アルミの机は似合わないと。これから、和食が無形文化遺産に登録されたのを機に今後ますます和食の飲食店が世界に進出するだろう。それとともに和風建築の技術も世界に進出する。建物も器も本物をつくらなければならない。気仙大工は有名であり、桜田門や明治神宮の一部も作っている、気仙大工は業界でも有名だ。その気仙大工と数寄屋づくりの大工が合体して、これぞ、日本の建築といって世界に進出することになるだろう。

●本物へのこだわり

ここに来ている人は、地元に帰ったら官だの民だの言わないでくれ。俺はここの住民だと。たまたま仕事として役所に勤めているのだと。その考えがとても大事だ。私が常日頃大事にしていることは「本物」。なかなか本物の公務員には会えない。本物の公務員ほど、普通の公務員からみると何と言われているか、「アホな公務員」と。彼らからみると別物扱いだ。
醬油屋として同業者の醬油屋から、「なんでお前は世界に安い原料があるのに、地元の高い原料にこだわるのだ。アホ」と言われてきた。

●八木澤商店の誇り

震災の日、私は東京にいたが、友達の助けもあり、東京から陸前高田に戻ることができた。3日後、なんとか家族が避難している場所が判り、次の日の朝、孫たちが抱きついてきた。お前たち最初に何食べたと聞いたら「おにぎり食べた」と。「良かったな」と言ったら「一家に一個だけ」だと。そういう経験しているから、陸前高田の子どもたちは、おむすびは嫌とは言わない。

八木澤商店は、家を失った人たちに物資を届けた。そうする間に途轍もない悲劇がわかった。家を失った人には自衛隊が物資を届けた。市役所職員は3分の1が亡くなっている。生き残った市役所職員は、遺体をブルーシートに乗せたり、安置所探したりしていた。
悲劇とは何か、家が残った人に物資が一切届かなかったことだ。これだ!と八木澤商店と自動車学校と内陸から来た中小企業同友会のメンバーとで物資配りをした。「八木澤商店です。200年間お世話になりました!店に届いた物資です。貰ってください」と。そしたら向こうが「あんたの店は流されたんでしょ。届けているあんたの家の方が何もないじゃない。なんでここまでする。さすが八木澤商店、八木澤商店らしい」と多くから言われた。それを配り終わった社員から「社長、皆に泣かれた。喜ばれた」と笑顔が戻ってきた。私はいつ廃業するか考えていたが、その時決心した。その配達した社員の笑顔が戻ったのが3月23日。それで倅になんで頑なに会社をやると考えたんだと聞いた。

●9代目社長誕生

息子が言った「親父、親父が3日間いない間、俺は社員の動きは誇りに思っているんだ。何の指令もなしに近所のおばあちゃん達を背負って、階段駆け上がり後ろ振り向いたら階段が無くなっていた」。そんな社員の姿は誇りだった。この社員とは、例え仕事が別でも絶対繋がっていなきゃならない。うちの会社は古くて小さいけれど、特徴は経営者もパートさんもでっかいテーブルで同じおかずを食べること。だから家族なんです。倅が物資配りを仕事にするというので、それに対して一時金を渡すことにした。25日にはフロッピーが見つかり、社員の給料明細書が出てきたので、一時金ではなく給料を渡すことにした。そうしている間に、67年前の看板も見つかり、これは会社をやれということだと理解した。

妻と息子と3人で3月31日に銀行から無理やり金をおろしてきて、銀行の封筒を給料袋に見立てて給料を渡すことにした。すると息子が、「どうせ変えるなら会社の正月は4月1日だ。それから先は俺が社長をやる」と言った。それもそうだなと。
するとここで大喧嘩になった。息子が「明日重大発表があるとだけ言って社員皆を呼んだが、内定者も呼んだ」と言う。なぜそこまですると私が問い詰めると、倅が「親父、酔っぱらうと俺に教えていた言葉は嘘だったのか。会社は大きい小さいよりも一番大事なのは信用じゃ。信用というものは約束事を守ることと正直でいれば信用という塊はついてくるわい。あの言葉忘れたのか」と。去年の秋に内定者には「内定」ではなく「決定」と言ってしまっていた。初めて社長になって嘘をつくことになる。
テレビでは放映されていなかったが、4月1日に息子はとても大事なことを言った。益々息子に譲って良いと思った。「皆さん。この二人入りたいそうです。また二人の家族が増えました」と。その時初めて僕は泣いた。こいつに任せて良いと思った。

●「真剣だと知恵が出る」

4月から全部で7千通の励ましのお手紙を頂いた。2通みなさんに紹介したい。
その中にお金が入っている。全部ひらがなで書いてあった。「おにいちゃんとわたしのこづかいです。しょうゆやさんがんばって!」といって2千円入っていた。「驚きました。私たちが食べていた醬油があの津波で流された八木澤商店のものだとは。何年でもお待ちしますから、出来た暁には小さな瓶1本で結構です。お釣りはいりません。追伸、因みに私たち夫婦は只今79歳。何年でも待ちますよ。長生きのロマンができました。」どう思う。日本人はこんなに優しい。私は本当に泣きました。

工場を作るとき、ミュージックセキュリティーズという会社が核になって、ファンドをやろうということになった。個人から一口1万円。5社以上が一緒に募るのだが、皆恐る恐るだった。うちは5千万。この時に、二回目の倅との喧嘩になった。私は、「誰が何もなくなった会社に投資するもんか。いくら便利だからって止めろ」と言った。すると息子が、震災前に私が中小企業家同友会での講演会で言ったことを引き合いにした。「真剣だと知恵が出る。中途半端だと愚痴が出る。いい加減だと言い訳が出る。」そう後継者世代の若者に言っていた。
結果、2ヶ月で5千万円集まった。挙句の果てに中身を見たら、1~2万円を出資した20代の人が800人もいた。息子に負けたが、日本はまだ大丈夫だと思った。皆が助け合い、義理と人情がある。

今の世の中なぜか、お節介・お人好し・義理と人情は嫌な人の代名詞のようになっている。残念ながら今の日本の若手経営者の中には、少し経営がおかしくなると給料や人を切るところからやる人がいる。俺はそんなことはできない。取締役もパートも同じ人間だ。雇用のないまちはまちではない。インフラができることが復興ではない。このまちに暮らす人が安心して暮らせることが復興。そしてこの地の復興を担うのは、この地に根を張って生きる住民や企業だ。生業があって、雇用があってはじめて、社員や地域の人々が安心し暮らしが守られる。

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最後に、中小企業家同友会の仲間が書いた詩を紹介します。
おらあやっぱりこごがいぃ
大津波で全部なぐなっても
地震でぼっこされても
やっぱこの街が好ぎだ
やっぱこごに居だい
こごぁ一番だ
二度と同じけしぎぁ見れねぁども
二度と同じ建物ぁただねぇべども
おらどの目にはしっかり焼ぎついでいる
わっせるごどねぁ あの景色
おらどの街
やっぱりこごがいい

感想

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河野氏の復興への諦めない揺るぎない信念が、奇跡や数多くのドラマを生みだしたと感じました。人と人のつながりの大切さ、大切にしなければならないことは何かを考えさせられました。
「真剣だと知恵が出る。中途半端だと愚痴が出る。いい加減だと言い訳が出る。」自治体職員として、知恵が出るほど真剣に向き合えているのか、このお言葉を肝に銘じ進んでいかなければと感じました。