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自治をつくる

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講師:福嶋浩彦(東京財団上席研究員、消費者庁長官、前我孫子市長)※肩書きは当時
講義日:2012年5月19日(土)
文責:週末学校事務局 稲垣亜希子

本講義の目的

2000年に施行された地方分権一括法により、国と地方の関係は制度上、基本的に対等になった。しかし、10年以上経っても、国と地方が上下関係であるような意識や慣習が、双方に存在している。特に、多くの地方自治体は依然として、「国の指示どおりに」、「前例に従って」、「他市と歩調をそろえて」という思考パターンで行動しているように見える。
自治体は、都合が良いときだけ「地方分権」を謳うけれど、その「地方分権」は、単に国からお金をもらいたいという中身になってしまっていないだろうか? 本当に自分たちのことを自分たちで決定し、自分たちで責任を持ちたいと思っているだろうか?

「自治」の大原則、それは住民による自治である。首長や議会の権限が大きくなるだけでは、自治は実現できない。この大原則を、自治体(行政)自体が理解していないことが往々にしてあり、そのことが「地方分権」を阻む大きな壁にもなっている。「地方分権」の目的は何か?「分権」とは、誰の権利を分けることなのか?

千葉県我孫子市長を3期12年務め、一貫して住民自治を理念とした自治体改革に取り組んだ福嶋浩彦氏を講師に迎え、住民による自治を真に実現させるために何が必要かを、ここで改めて考える機会とする。

講義

●地方に覚悟が無いと分権は進まない
2000年に地方分権一括法が施行されたが、地方自治体は12年間、この法律で獲得した権限を十分に使っていない。たとえば、国から地方自治体への「通達」は廃止された。今、国から来ているのは「通達」ではなく「通知」であり、これは、あくまでも強制力を持たない国からの技術的助言、あるいはお願いに過ぎない。過去の「通達」も強制力を失った。しかし今でも、国から来るものを「通達」と思い込んで、何も考えずに従っている自治体がほとんどではないだろうか。
また、機関委任事務は廃止され、自治体が実施する事務は自治事務と法定受託事務の二つになった。自治事務の場合、第一義的な法の解釈権は自治体にある。法を制定するのは立法府としての国会だけだが、自治体は行政府である各省庁の法解釈に従う義務はなく、各自治体の実情を踏まえて可能な限り住民の利益につながる解釈をしていく必要がある。
仮に国が、自治体の解釈は明らかに間違っていると判断したら、自治体に対して勧告なり是正の要求を行うのが、法に定められた手続きである。国から是正の要求があっても、自治体側が納得できなければ、国・地方係争処理委員会(第三者機関)に訴えればよい。さらに、委員会の結論にも同意できなければ、自治体は高等裁判所に提訴し、最終的には司法の判断に委ねることになる。
国と地方の行政は基本的に対等になった。にもかかわらず、ほとんどの自治体が自らの権限を行使せず、自分の頭で考えず、国に従っている。地方分権が進まない原因は、むしろ地方にあるのではないか。

講演などで様々な地域に行くと、「これから地方分権の時代が来るから、しっかり自治の力を付けたい」というような話を聞く。この発想は逆立ちしている。私は「誰か(国)が分権を進めるから、自治をやるのですか? 皆さんがそう思っている以上、分権は進まないから大丈夫ですよ、安心してください」と答えることにしている。自分たちのまちを良くしていくためには、国の一律の基準ではなく、「自分たちが考え、自分たちが責任を持って、自分たちで決めたい」から、国に分権を要求するのではないだろうか。

ただし、「分権」とは国の権力を地方に分けることではない。主権者である市民が、権力を国と地方に分けて与えることだと考える(※ ここでの「市民」とは、「近代市民社会の構成員たる市民」という普遍的な意味)。なぜ分けて与えるのかと言えば、市民が権力をなるべく自分の近い所において、主権者としてコントロールしやすくするためである。
行政は「権力」であるということを忘れてはならない。税を強制的に徴収したり、都市計画を策定して私有地の利用を制限したりする。市民に義務を課すし、市民の権利を制限するのである。この権力は、市民が自由に生きるために必要である。権力が存在しなければ、財力や腕力の強い人だけが自由を持つことになる。ただし、この権力は、主権者である市民の意思で行使されなければならない。権力を持つ人や力の強い人の都合で行使されたらとんでもないことになる。

●自治体は直接民主主義が土台になる
 地域づくりは、エリートによる客観的な分析から始まるのではなく、市民一人ひとりの想いから出発する。想いは一人ひとり当然異なるので、合意を作り出すことが何より重要になる。これこそがまさに民主主義である。
ところで、国の民主主義と自治体の民主主義は、仕組みも異なるが、質も異なっている。国の場合、国民は選挙で国会議員を選び、国会議員が権力を行使する。総理大臣も国会が選ぶ。国民は、国会議員をリコールすることも、国会を解散させることもできない。また自らの手で法案を作って国会に提出することもできない。会計検査院に各省庁を強制的に検査させることもできない。国を相手に納税者として訴訟を起こすこともできない。権力の行使はあくまで選挙で選んだ代表者が行い、国民が直接行うことはない。憲法の前文にも明記されているが、完全な間接民主主義である。
つまり国の民主主義は、「権力行使を誰に任せるか」を主権者として選挙で決めることが中心である。お任せ民主主義でいいという意味では全くないが、国民は法的な権限を持って政府の決定に直接関与することはない(憲法改正は除く)。

自治体の場合は、市民は首長の選出を議会に委ねず、首長と議会(議員)をそれぞれ選挙で選ぶ。そして市民は、首長も議員もリコールすることができ、議会を解散させることもできる。条例案を作って直接請求することもできる。また、住民監査請求を行うこともできるし、納税者として住民訴訟を起こすことも可能である。
つまり、自治体における権力行使は、選挙で選ばれた首長と議会だけではなく、直接に市民も行う。自治体の民主主義は「市民が直接決める」という直接民主主義がベースなのである。ただ、現実的に全て直接民主主義によって自治体を運営できるはずはないので、首長と議会も選挙で選んで、日常的にはこの2者にやらせる。直接民主制の土台の上に、二元代表制を置いている。
ただし、土台は「市民が直接決める」であるので、主権者としての市民の意思と、首長や議会の意思とが異なれば、市民は首長や議会をリコールしたり、解散させたりする。したがって首長と議会は、常に市民の意思に基づいて行動することが求められている。

市民の意思に基づいて行動といっても、常に住民アンケート調査を実施して、その結果通りやればよいということではない。地方政治家は、国の政治家より強いリーダーシップが必要となる。市民の合意を作り出すリーダーシップである。間接民主制で動かす部分であっても、首長や議会が決定する際は、さまざまな市民と対話し、徹底的に議論をして、常に合意を形成しなければならない。これが市民参加、市民参画と言われるものである。

●市民参加において大切なもの
 私は我孫子市長に在任中、市民参加の様々な制度を作った。市長就任当時、30年以上も市からの補助金を貰い続けているような団体も結構あった。補助金の受給が既得権益化してしまうと、右肩上がりの時代が終わった今日、新しい団体が入り込む余地はなくなる。結局、必要なところに補助金を出せなくなる。補助金を適正化するには、一切の既得権を無くす必要がある。そこで、すべての補助金を一度廃止し、その上で補助金を貰いたいという団体を公募し、応募があったものを市民の委員会で審査し、その結果に基づき補助金を出すようにした。市民の税金を財源とする補助金を、どの団体、どの活動に出せば、市民が最も幸せになるのか、オープンな場で市民と行政が議論して決める制度である。
さらに、我孫子市では予算案の編成過程を市民に公開することにした。予算案の作成は各課が予算要求するところから始まるが、各課の要求をまず市のホームページで公開する。計4回の査定の結果もその都度公開し、パブリックコメントとして市民の意見を募った。予算案の編成過程を公開すれば、市民は自分の要求した事業と他の市民が要求した事業との優先順位がどのようにつくかを見ることになる。自分の要求から出発して、まちづくり全体を考えることができる制度なのである。しかし当時、まだまだこの制度を十分に活かしきれてはいなかった。行政、市民、双方とも、こうした制度を活用する力をもっとつけていく必要がある。
ところで、我孫子市が編成過程を公開したのは政策的事業の予算案に限っている。鳥取県は、片山善博氏(慶応大学教授、前総務大臣)が知事を務めていた時、経常的な事業を含めすべての予算案の編成を公開した。我孫子市で敢えて政策事業に限ることにしたのは、政策判断の部分にこそ、市民に参加してほしいと考えたからだ。情報公開の時代、洪水のようにすべての情報を出すことで、大切な部分が埋もれてしまうこともある。公開と参加が一体となることが大切だと考える。もちろん全て公開の方が良いこと自体は明らかで、将来は経常的事業を含めた公開を目指さなければならない。

このように私は市民参加の仕組み作りを徹底して行ったが、仕組み作りが一番大切だとは考えていない。制度をいくら作っても市民が無関心であったら、その制度は使われない。私が何よりも大切にしたのは、我孫子市の中で最も問題があるところに、その問題が一番沸騰している時に直接行って、市民と向き合い、とことん話し合う、徹底的に議論をすることである。そこではケンカ腰の議論にもなる。私は市長を務めた3期12年間、市民からの支持、応援が唯一の力だった。しかし一方で、12年間、市民とケンカしつづけてきたという印象も持つ。ケンカ腰で議論するということは、真剣に向き合うということで、そんな中からしか、行政への関心や地方政治への想いは生まれてこないと思う。これは首長だけでなく、議会もやらなければならないことである。

また、行政の中の聖域の部分、できれば市民に見せたくない所、見せてこなかった所にこそ、市民に参加してもらうことが大事だと考えている。たとえば、先ほど述べた補助金の交付先、あるいは職員採用なども役所にとってある意味デリケートな決定で、かつては聖域のような部分だった。だからこそ我孫子市では、補助金の公募と市民の委員会による審査制度を作った。市職員の採用試験の委員会にも、民間から委員として参加してもらって、一切の縁故採用を排し、完全に公正な採用を実現した。
市民に見られたくないような部分にこそ市民に参加してもらうことで、行政は確実に変わっていくのである。

●議会への市民参加こそ必要
議会については別に講義があるので詳細は省くが、市民参加が必要なのは首長(行政)に対して以上に、議会に対してである。議会は自治体の予算や条例を「決定」する機関である。民主主義においては「決定」はもっとも重要であり、そこにこそ市民は参加しなければならない。議会への市民参加とは、議会の公式な場で、公式に議員と市民が侃々諤々の議論をすることである。首長(行政)も、議会も、市民参加を自らの力にして、その力を前向きに競い合わせながら、自治体の運営に当たらなければならない。

●住民投票制度の意義
どんなに首長や議会が市民参加を積極的に進めたとしても、首長や議会の決定が市民の主権者としての意思とずれることはある。その際に、市民が首長や議会の意思を是正させる手段を担保しておく必要がある。
その手段が常設型の住民投票制度だ。我孫子市の常設型住民投票制度は、全投票資格者(18歳以上の市民で永住外国人を含む)の8分の1から請求があれば、必ずそのテーマで住民投票を実施するという制度であり、首長や議会に拒否権はない。そして、住民投票の結果、首長や議会の意思と違う主権者市民の意思が示された場合は、首長や議会は自らの意思を変更し、市民が示した意思を尊重して決定する義務が課されている。

●避けては通れない財政の問題
財政の話はこの講義の本旨ではないが、自治体を「市民の意思で動かす」と言ったとき、避けて通れない問題である。地方分権が進まない理由の一つに、自治体における住民税や固定資産税の税率が、標準税率で基本的に全国一律であることも挙げられる。行政が何をしてもしなくても、税率が一緒なのであれば、市民は、常により多くのサービスを要求するようになる。これは、ある意味、当然のことだと言えよう。もし、自治体の税率が当たり前に変動したら状況は異なる。
例えば夕張市長が「テーマパークを作って観光客を誘致しよう。そうすれば、観光客の落とすお金で市財政も豊かになる。だから、テーマパーク建設の資金を確保するため今後2年間、住民税を3%増税させて欲しい。その後は観光客によって潤うから、3年目以降5%減税する」と市民に求めたとしたら、夕張市民は当事者意識を持って、「本当にテーマパークを作ると観光客を呼べるのか」と真剣に考えただろう。観光客を呼べなければ、増税だけが残り、5%の減税は消えてしまう。しかし現実は、テーマパークを作っても作らなくとも市民が払う税金は同じであり、「市長がテーマパークで豊かになるというなら任せておこう」となってしまいがちだ。

最近、大阪市の橋下市長が、消費税はすべて地方の財源にすべきと主張している。確かに消費税は、地域偏在が少ないという点では地方財源として適当である。しかし、消費税の税率を決めるのは国会であり、自治体ではない。自治体が自分で自分の税率を決めない限り、真の自治は実現しない。受益と負担が連動してこそ、市民はまちづくりの当事者として責任を持って考えていくことができる。自治体の税率が動くようになることは、とても大事であると考えている。

●まちづくりに「正解」はない、出発点はあなた自身の「想い」
「優秀な職員」と言われるような人ほど、まずは客観的な分析から始めることが多い。人口推計や産業、福祉など様々なデータを集め、それらを分析して、「こういうまちづくりをするべきである」と政策を打ち出す。しかし、データを集めて分析すればまちづくりの正しい方針が出てくるなら、そのうち人工知能にやってもらったほうが良くなるだろう。
まちづくりは本来、「想い」から出発するものであり、肝心の「想い」がない政策は中身のないものとなる。優れた客観的な分析は、その「想い」を実現するために必要不可欠なものであるが、出発点ではない。

最初に述べたが、当然、「想い」は市民一人ひとり異なっており、その上に成り立っている首長(行政)、議会も、またそれぞれに「想い」がある。市民、首長(行政)、議会が、互いに対話しながら合意を作り出していく。これこそが自治体のまちづくりなのである。
まちづくりに正解はない。子どもの頃から受験勉強で正解を探す訓練ばかりしてきた学歴の高い人ほど、まちづくりにも正解があり、それを的確に見つける人が優秀だと思っている。けれども、私たちの外にあらかじめ正解があるわけでは決してない。私たち自身が、合意をつくりだすのである。とても難しいことではあるが、常に市民と向き合って、市民と共に合意をつくっていくという作業は、本当に面白い仕事である。それこそが自治体職員、とくに市町村職員の醍醐味だと思う。皆さんも、冒頭にお話した「逆立ちした発想」を改めて、自分の頭でよく考え、自分の足でしっかりと立つ職員になってほしい。

 

研修生の声

「地方分権とは国の権力を地方に分けることではない」という福嶋氏の発言に対し、「まさに『逆立ちの発想』で考えていた」と感想を述べる研修生が多かったが、「普段どこ(誰)を向いて仕事をしているのか」と自身を省み、「今後は国・県・他自治体のケースを鵜呑みにせず、自分の頭で考えてみよう」との前向きな声が多く寄せられた。同時に、「行政は権力である」ことを理解し、自身の仕事の責任の重さを痛感する講義となったようだ。