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(2014年度国内調査)杉本水産:環境マイスターのものづくり現場~熊本県水俣市~

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調査先:熊本県水俣市 杉本肇(杉本水産)
調査日:2014年6月27日(金)12:15~14:00
文責:北海道白老町 貮又聖規 (2014年度参加者)

本調査の目的

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「まちづくりはそこに住む人々の『想い』から始まる」。

週末学校では、このメッセージを一貫して伝え続けている。この「そこに住む人々の『想い』」とはどのようなものだろうか。そして、そこからスタートしたまちづくりとは、どんな様相を呈しているのだろうか。

水俣病という苛烈を極める苦難を抱えながら、地域の自然や風土、そして人と人とのつながりを再起させ、新たな地域の価値を生み出し、人々が「ここ」に生きる希望を作ってきた熊本県水俣市。吉本哲郎氏(地元学ネットワーク主宰)によると、「水俣は魂の最も深いところが震えるまち」とのこと。本調査では、その地を実際に訪れ、混乱の渦中に身を置きながらも、地域の再生のために尽力し続けてきたキーパーソンらにお会いする。そして、対話や議論を通じて、彼らの地域に対する想いや哲学を肌で感じると同時に、この地域が発する熱量に触れ、真のまちづくりとはどのようなものなのかを探る。日々の生活の中に生まれた苦しみを背負いながらも、地域への想いを胸に歩み続ける人々に会い、自身の地域に対する見方や姿勢を見つめなおしてほしい。

以下では、不知火海のイリコ漁師・みかん農家であり、水俣病患者家族として語り部の活動もされている杉本肇さんにお会いした際の、参加者レポートを紹介する(国内調査全体については、こちらを参照)。

参加者レポート

●6月27日 「魂の最も深いところが震えるまち」水俣から

6月27日水俣滞在の初日、天気は曇り空、新水俣駅にて21名の参加者が集合し、「環境マイスターのものづくり現場」の調査ということでバスに乗り込んだ。

調査先は、水俣市中心部から車で20分ほど南に下った茂道地区にある「杉本水産」。その目的は、環境マイスターであり水俣病の語り部でもある杉本肇さんを訪ね、水俣病という苛酷な苦難とどう向き合い、水俣に生きる希望をどのように作り、地域再生のために今をどう生きるのかを学ぶことであった。

話は少し横道にそれるが、杉本水産(杉本家)と水俣の再生を語るには外せない人物が吉本哲郎先生だ。

吉本先生は、現在は地元学ネットワーク主宰として活躍されているが、元水俣市職員であり、私たちの大先輩である。1971年に水俣市役所に入り、20年間都市計画課に在籍。その当時はもう役所を辞めようと決意されていた。そんな矢先に「水俣病問題の解決と水俣の再生」を任される。辞めようと考えていたが、もう逃げられないと思い「逃げるな」と自分に言い聞かせ、役所に勤めて初めて水俣病患者に会いに行く。

そこで、初めて話を伺ったのが杉本栄子さん、雄さんご夫妻(肇さんのご両親)だった。その出会いが水俣再生に向けた第一歩『地元学』のはじまりでもある。

 

●杉本水産加工場にて 食材にこめる物語と真心

バスを走らせながら、車中では我々の講師である吉本哲郎先生がガイドをして下さった。「水俣はリアス式海岸(山が海にせまる)の地形にあり、真水が湧くところが何か所もある。水俣湾には豊富な藻場が魚の産卵に役立つことから、たくさんの魚が獲れた。『魚(いお)湧く海』と呼ばれたのがその由縁である。」と。

多発地帯でもあった湯堂という漁村を通過した時、吉本先生は「この道は何百回通ったことか」と呟いた。「杉本水産は、お父さんと息子さん2人が漁師をしている。食べれば分かるから」と説明を加えた。

『食べれば分かる』この意味を皆さんはどう捉えるだろうか?普通ならば美味しいという意味に捉えるが、その真意は食材にこめられた物語と真心である。

到着し、杉本水産の加工場に着いた時には、大粒の雨が降りはじめており、駈けこむように加工場に入った。お昼時ということで、先に食事をとることになった。

しらすは、純白透明な優しい光を放っていた。

口に運ぶと何とも言えない潮の香りとふっくらとしたまろやかな味が口いっぱいに広がる。「食べ物でなった病気は食べ物で治す」との杉本夫妻の信念と食べ物への愛情の物語が食べ手にも伝わり、参加者一同、感謝の念をもち食べさせていただいた。『本物』の大切さを肌で感じた瞬間であった。

 

●杉本肇さんのお話しから-見えないトンネルの中を彷徨っていた少年時代-

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杉本肇といいます。今食べていただいたちりめん漁をしております。ちりめん漁を再開という形で始めたのが22年前です。

水俣湾はイワシなど小魚が多く獲れるところで、眼の前は不知火海なんですが、深くても30メートルぐらいの所で、内海で結構波が穏やかです。波も高くないし、出漁するとすれば年間200日くらいは出漁できる、非常に魚にも人にも優しい地域です。

もう水俣病が発生してからは58年、1956年に公式確認ですが、それ以来水俣は混乱の中にあり、うちの家族もその真只中にいました。水俣病の被害者というのは10万人ともいわれますし、或いは20万人という人もいる。その中で水俣病の認定患者というのは3千人くらいしかいらっしゃいません。水俣には2千人くらいしかいないのですが、家はその中の4人が水俣病の認定患者です。

いわゆる重症者に、うちの父と母と爺さん、婆さんがいました。私が小さい頃、生まれたころから症状があって私は育てられました。だけども水俣病を認識というか、自分の中では分かっておらず、小学2年生まで過ごしました。それは、身体が不自由であった婆ちゃんがろれつが回らない、手足も不自由で入退院を繰り返しながらおったんですけども、実は母さんも既に腕の麻痺があって、痛みもあった。しかし私は、そのことに気がついていませんでした。

愛情たっぷりに爺さんに可愛がってもらって、僕は自分の家がとても大好きでした。とても大事に育てられてきたのだなという思いが今あります。

それは特にどういうことかというと、私が生まれる2年前に婆さんが発病しました。公式確認から3年後の1959年です。この村、海では初めての患者でした。その当時の患者さんは、とても苦労をなさったそうです。僕はその事には全然気付いていませんでした。いわゆる差別です。水俣病が確認されてからは原因不明ということで、水俣でおきた奇病というふうに称されました。特に海岸線に患者が多い、というのは今は原因がはっきりしていて魚を食べていたからなのですが、それと家族に同じ症状の人が多いことから、身近な人から感染をしていくのではないかと疑われていました。水俣病の患者・家族というのは病気の大変さはさることながら、その差別を恐れて言いだせませんでした。

家族に水俣病患者が出ると、他の人から患者の家というレッテルをはられて、消毒はもちろんのこと、差別を受けました。このことを僕は知りませんでしたが、後に母の語り部で知りました。そんな環境の中でも、近所の悪口を聞かされない、差別を受けてもそれを聞かされないままでした。だけど相当苦難もあったようです。家は網元だったんですけど、水俣病が発生した当時は家には10人から20人の若い人達や網子さんという出入りをしていた家族がいました。でもその人たちは来なくなってしまいました。当然、漁は縮小されます。病気を抱えたまま、或いは自分たちが病気になっていく中で、村からの差別が一番心の傷となったという話を母はしていました。

ここは、日本のどこにでもある地域、漁村だった。いわゆる祭事も仏事も葬式があると村で皆で協力し合い、結婚式も親戚一同呼んで家族で行う、祭りごとも村で一緒にやるというような、どこにでもある昭和30年代の日本の地域です。

そのような地域に病気が発生し、患者家族と差別を受けるということは、どんなに大変なことか、一口で差別と言いますが、それまでは皆、村の社会の中で同じご近所も家族というような密接な関係の中にいました。それが剥がれ落ちていくというのは、溝が生まれることがどんなに辛いことか、後々に母から我々が聞かされたことです。

水俣病の患者になったよりもそのことが辛いと常々言っておりました。その中で私は発病して手の姿形が変わっていくという母のもとに生まれて少しずつ気づいていきますが、一番衝撃だったのが、大好きだった大事に育ててもらった爺さんの死です。

婆ちゃんは私が生まれてから、ずっと口もあまり聞き取れないし、手足の不自由さもありましたが、生まれてからずっとなので、これは高齢のせいなのかと思って、婆ちゃんだからそうだと認識していました。

だけれどもそれは違っていました。突然、元気そうだった爺さんが倒れました。小学校2年生の時でした。学校から帰ってくると、寒い寒いと爺さんが上がってきたので、どうしたことかと思って爺さんの所にいくともう既に顔色が変わっていて痙攣をしはじめ「布団を掛けろ布団をかけろ」とうわ言のように言って、意識を無くして身体が大きくうねる様な痙攣に陥りました。

それで救急車を呼んで、運んで大変だということで緊急入院をする訳ですけど、それから2週間で学校から帰って来ると家の様子が変わっていて、近所のおばさんから爺さんが亡くなったということを知らされました。

非常に私はそのことがショックで、身内の初めての死ということもありますが、僕は保育園も幼稚園も行っておらず家族に見守られて育ち、寝ても覚めても爺さんと一緒にいるというくらいに大事にしてもらったんです。その中でずっと一緒に過ごしてきた人がいなくなる人生の中で一番つらいと初めて感じたんです。亡くなるということが、生命が失われるということが初めてだったし、もう会えなくなるという寂しさから、喪失感が常に続きました。そしてなんで死んだんだと尋ねたら、水俣病で死んだと話しをされました。

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爺さんの印象があるものですから、水俣病というのは突然人を死にいたらしめる病気であると認識してしまいました。なので水俣病は怖い病気であるとずっと離れませんでした。

それは昭和44年のことでした。チッソが原因企業だと43年に発覚して全国から水俣が注目されるようになりました。公害の原点ということもそうですが、チッソ工場が流した有機水銀で人が死んでしまうということを僕はその時から初めて知るようになりました。

ただ色々な情報の中で一番知りたくない情報は、病気の症状でした。

それは知れば知るほど、怖くなるからです。なぜかというと爺さんばかりではなく、婆さんもそうですが母もその症状に似ている父もその症状に似ていると自分の中で理解をすると、自分の中で否定をしたり色んなことを考えるんですよ。

でも否定できない現実があって、朝起きると眼も開けられないくらい目まいに悩まされる父と母がいました。

そのとことはもう病気を前に家族でいると怖くて仕方ありませんでした。何が怖かったかというと次に誰が死ぬのだろうということです。突然、身体がだるくなったりしますが、そのことで子どもたちは不安になります。次は父だろうか次は母だろうかとカウントダウンをはじめる。家の中から大人達がいなくなる、そういう不安を抱くと心配で心配で仕方ありませんでした。

 そんな小学生時代を過ごしました。交互に入退院をする時は良いのですが小学校5年生の時はついに家の中には子どもたちだけが残されました。3ヶ月間、その中で過ごしました。

人が死ぬということで、私たちが置き去りにされることが一番自分の中では不安で、立場としては長男だし弟たちをどう育てていこうかということを自分の中で考えながら過ごしてはいたのですが、その答えは見つかりませんでした。というのは、もうひとつ答えが見つからなかった原因は、自分の家族が水俣病であるということを誰にも言えなかったことです。

そのことを言えば差別を受けるんじゃないかとか、当時の水俣は水俣病のことを口にする人は誰一人としておりませんでした。それは原因企業のチッソがここにあるからです。患者さんもそこにいるからです。そのことには全く触れないという様な実情がありました。

学校の先生でさえ、もう公害病という社会科に出てくるような大きな公害病でしたが、そのことには全く触れませんでした。3大公害病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病、水俣病、その教科書を読むだけで終わってしまいました。

今のような学習であれば自分たちも少しは知識を得て不安ではなくなったんですが、そのことには触れてはいけないという風に自分たちで思っていましたので、家族が水俣病であるということは誰にも言いたくもなかったし、そのことには触れて貰える筈もないし、先生に言うと先生も迷惑をするんじゃないかなと伏せていました。

なのでずっと、見えないトンネルの中を彷徨っているようで、非常に小学校生活を思い出すと辛くなります。

このようなことをを今、子どもたちにも話すのですが、長年続いた色々な想いを思い出してしまってなかなか大変なんです。水俣病の患者・家族というのは当人も家族も同じ想いでおりますので、今のように水俣病を話せる時代になるとは思いもしませんでした。自分の中で、ずっと色々なことを殺し続けて今日まで来たのですが、やっとこういう時代が来たのかなぁと思っております。

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その中で重さというものを自分の中で再確認をして皆さんにお話しをするようになりました。これをもう少し早く皆さんに知っていただく機会があれば第2次第3次の日本が崩壊していくことはなかったのかなと思います。

これは我々大人の責任かなと自分は感じております。福島の人たちにお話しをしたり、少しずつ近づいていって話をするようになりました。自分たちが出来る範囲のことをしっかりと今は漁・仕事を続けながらやっていきたいなと思っています。

先日も新聞に載りましたが、差別の発言とか色々ありますけれど私たちは水俣の大人たちですから、水俣の子どもたちがこの地を勇気をもって水俣出身だと言えるようになるまでしっかり頑張っていきたいと思います。

水俣に生まれて良かったなと思える子どもたちが少しでも増えるように。語るということは非常に辛いことなのですが、大人の責任として果たしていこうと考えています。今は水俣病資料館で月に5回程度、語り部をやらせていただいております。

その中で、将来の水俣ということを常々色々な立場で考えますが、もうひとつ自分の役目があると考えています。それは困難な状況にあって水俣がずっと伏せていた、心が沈んでいた期間が長かったせいか、自分たちは、それはとっても嫌でした。何を考えたかというとやはり、人が笑顔になることがとても大事なことといま思い始めました。

家族の時代に一番ありがたかったことは、母の笑顔であったり、人が笑顔で迎えてくれる姿はとても心がホッとするような、そんな感じを覚えたので今は水俣を中心に活動をやってますけどお笑いの方も少しやってまして、明日みなさんとお笑いの姿で我々3人が立ちはだかります。

 

●質疑応答

Q 心を閉ざしていたのを振り切って、それを話し始めるのはとても大変なことと思うのですがそのきっかけは。

A 私の父と母は水俣病の語り部でした。そのことは次世代をつくるという話がずっとありました。水俣で水俣病展があり、その中にボランティアで入ってくれと話しがあって、自分のことを話してくれと言われて「僕は水俣患者ではないから話せない」と言ったんですが、スタッフの人達から話を聞きたいと言われたんですね。

話をしてみたら僕はこんな話は、ずっと心に収めて一生送るんだと思ってましたから、自分の話したことで相手がこう、聞く人が、それを感動して泣いて聞いてくれる人もおって、「そんなに辛いことがあったの」と自分でも驚いたんです。「貴方の話し分かるわ」という人がこの世の中にいたんだと思ってびっくりしました。「そんなに、大変な小学時代があったなら話せば良かったじゃない」と言ってくれてですね。その時に「あーっ!」て自分の経験も捨てたもんじゃないんだなと、初めて聞く人に感動してもらったと、それを聞いてくれた人に有り難いなぁと思ったんですね。

自分の経験というのは水俣病の中で生きてきたし、吐出というか世の中に出ない、葬ってしまいたい出来事だったので、それを聞いて泣く人がいるっていうことが、どいうことだろうと自分でも理解出来なかったんですが、初めて人と人が心分かるというか、感性が聞こえて、こんな人も世の中にいるんだということで、少しずつ話しを始めた次第です。


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Q 行政との関わりはどのようになっていましたか。

A 役所に20数年前にとても偏屈な人がいました。それでどういう訳かそれまでは水俣患者さんというのは、役所もチッソと一緒で行政も敵である時代が長くありました。それで偏屈な奴がおって、話を聞かせていただきたいと来られていた。水俣病は治る病気ではなく、当時、両親は薬草を煎じて飲んだり、薬草を色々と集めたり、自分で漢方薬を作ったりしていました。ある人から電話が来た「役所のことで相談したい」と。うちの母は何を勘違いしたのか役所を薬草と勘違いして、吉本さんが来た。患者のことを知らなかった。うちの母は「あんたは黙っとばってん何しに来たんかい」「役所から来ました」とそれが始まりだった。それから足しげく通っていただき、そういう一つのことから、どんどん広がった世界があるそうです。熱心にずっと話を聞いていたそうです。

吉本さんとの最初の出会いは、何回か家に来ていただいていて、漁から帰って来た時、ここで美味そうに白魚を食べていたんですよ。その時は、大漁か大漁ではないかという差が激しくあった時で、隣の船は2時間で100万円の水揚げで、うちは5・6万円だったんですね。その時に貴重な白魚を湯がいて「美味しかなぁ、美味しかなぁ」と食べているのを見て「あいつは頭にくるなぁ」とカリカリしている時にニコニコして食べていたもので、コイツとは絶対会いたくないという、それが初めての出会いでした。

 

Q なぜ水俣に戻ってきたのですか。

A ずっと逃げたくて逃げたくて東京にいったんですけど、結婚して東京で子どもが出来たんです。子どもがアトピーで苦労するんですが、子どもを育てる環境を自分で描いた時にどうしたら良いかと思い始めました。そして回想するうちに、自分が育った環境はどうであったかと、水俣病を除くと非常に恵まれた環境であったことが東京で分かったんです。

朝早く漁に行って、家族とともに仕事をして学校に行くというのは、働き手がいなかったから、僕たちが働いたりしていましたが、家には船があったし、夏休みには子どもを10人くらい船に乗せて島に遊びに行ったりしました。非常に恵まれた環境の中で、お金は無かったけれど自然と一緒に育むような生活を逆にしてきたんだと思うと、これは東京にいるべきではない、自然が豊かな水俣で暮らした方が良いのかなと思い始めました。その時にたまたま母親から船を作って漁をしようと言葉を掛けられるんです。タイムリーなことで自重しましたが、どうしようかという狭間におり1年間考えて妻に相談したら、良いのじゃないとなり、33歳の時でした。自分が子どもを育てる環境を考えたらその方が良いという、ただ水俣病のことは帰ってきても蓋をしたままでした。

 

●「やうちブラザーズ」-笑いのなかに感動がある-その理由

杉本水産を訪問した翌日6月28日懇親会にて。造花のレイで、上半身裸の腰みの姿のお笑いバンド「やうちブラザーズ」が登場する。肇さん、弟の実さん、親戚の鴨川等さん昨日の真剣な眼差しで語っていた肇さんとは、想像もつかない派手ないでたちでの登場だ。

3人が体を張った芸を繰り出して行く。会場は笑いの渦に巻き込まれる。歌の歌詞には、故郷水俣を、家族を、そして亡くなった母栄子さんを、こよなく愛するフレーズがある。僕は笑いながらも、心の奥底で違う感情が込み上げてくることに気づく。

網元だった当時の杉本家は、隠し芸を披露して網子と一緒に楽しむような場を大切にしていた。人の絆が深い穏やかな暮らしの中で育った肇さんは人を笑わせるすべを自然に身につける。『杉本家水俣病50年』の記録にはこう書かれてある。

うつるから村の中を歩くなと言われ、食べ物も売ってくれなくなり、村に出にくい日々が続いた。そんなとき栄子さんと雄さんは子ども達と一緒に雨戸を閉め切った家の中で歌い、踊るのだった。涙をこぼしながら泣き笑いするのであった。

栄子さんは、生涯「人様は変えられんから、自分が変わるしかない。水俣病も『のさり』(天からの恵み)と思え」の亡くなった父進さんの教えを最後まで貫かれたそうだ。

壮絶な過去を振り返るばかりでは暗くなる一方で光が見えない。苦しみも悲しみも「笑う」ことに変えることで、明日に生きる希望と水俣再生への道を切り拓いていかれた。

やうちの「笑い」には、家族の絆、悲痛な苦しみや哀しみ、それを乗り越えた勇気があったのだ。これからも沢山の「笑い」をつくるに違いない。ここに生きる希望のために。

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